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天長寺 (恵那市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
天長寺
所在地 岐阜県恵那市三郷町野井303
位置 北緯35度24分59.2秒 東経137度22分58.6秒 / 北緯35.416444度 東経137.382944度 / 35.416444; 137.382944座標: 北緯35度24分59.2秒 東経137度22分58.6秒 / 北緯35.416444度 東経137.382944度 / 35.416444; 137.382944
山号 地久山
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦如来
創建年 明暦2年(1656年)
開山 木吼観香(木吼杷挙)
開基 丹羽氏春
札所等 恵那三十三観音霊場二十四番
文化財 市指定:釈迦如来坐像
不動明王立像
宝篋印塔
法人番号 1200005009172
天長寺の位置(岐阜県内)
天長寺
天長寺
天長寺 (岐阜県)
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天長寺(てんちょうじ)は、岐阜県恵那市三郷町野井にある曹洞宗の寺院。山号は地久山。恵那三十三観音霊場二十四番。

歴史

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正保3年(1646年)11月11日、岩村藩主の丹羽氏信の三男の丹羽氏春[1]は当時、岩村藩主であった兄の丹羽氏定より、恵那郡の野井村と藤村の一部の1,000石を分知されて旗本となり、江戸城にて御小姓頭や御手先鉄砲頭を勤めた。

明暦元年(1655年)に、丹羽氏春は父の丹羽氏信の報恩菩提と、母の於徳の方の孝養のため、分け与えられた野井村に新寺建立を発願した。

明暦2年(1656年)11月18日、丹羽氏春は母の於徳の方の護持仏を本尊とし、当時、岩村城下に存在した一色丹羽氏菩提寺であった妙仙寺木吼観香(木吼杷挙)を招いて開山した。境内の墓地には木吼観香(木吼杷挙)の墓がある。

その後、妙仙寺は、一色丹羽氏の三草藩への転封に伴って播磨国へ移ったため、天長寺は兵庫県加東市にある妙仙寺の末寺となっている。

同年、同じ野井村にある臨済宗妙心寺派威代寺で壇徒間の諍いがあり、一部の壇徒が天長寺の壇徒となった。

その後文政11年(1828年)に改築を行っている。

明治3年(1870年)3月に、苗木藩の廃仏毀釈により、恵那郡毛呂窪村から仏像を買い取っている。本尊釈迦仏と両観音、三地蔵と千体仏並びに仏具である。

そして、その本尊の裏には、

地久山千与畧記 夫此佛像者 同国苗木領毛呂窪村 林亀太郎殿 去ㇽ万延二酉年三月建立ㇲㇽ処 御一新ノ折柄

彼地廃仏ㇳナㇽニ付 久須見村庄屋 喜代治郎殿口入ニテ 拝請金三拾両相納 本尊釋迦佛 両観音 三地蔵

千體佛 幷 佛具共 申受来 同三年[2]午三月十八日供羪了 是ヨリ例年三月二十四日ヲ以 斎日ト定

永代供養相勤ム可者也 天長現住世代

と、その経緯が書かれている。

木像不動明王像は室町時代の作で、桧材の寄木造りで素地・玉眼。像の高さは44.5cmある。光背を支えている木片には、明治10年(1877年)に名古屋城の鬼門である御深井丸に祀ってあったものが天長寺に納められたと記されているが、その経緯については不明である。

境内にある宝篋印塔も含め恵那市の指定文化財となっている。

また不動明王像の前に居る二童子の像は、いづれも一木造りで全体に丸みを帯びた彫口を示しているが、不動明王像とは製作された年代が異なり、後背や台座とともに江戸時代になってからのものと思われる。[3]

脚注

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  1. ^ 法名は清冷院殿雄嶽玄英大居士
  2. ^ 明治3年(1870年)
  3. ^ 刊行物 恵那市の文化財

参考文献

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  • 『三郷村史』第三章 歴史的方面 第一節 八 天長寺 p134~p135 石田彌三郎 昭和18年(1943年)
  • 『恵那市史』 通史編 第2巻 第八章 江戸時代の社会生活と文化  第二節 社寺と文化 二 仏教と寺院 天長寺 p1059~p1061
  • 『恵那郡史』 第八篇 現代 第四十一章 人文の発展(一) 【各宗寺院】 p612~p619 恵那郡教育会 1926年