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太田資高

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
太田資高
時代 戦国時代
生誕 明応7年(1498年
死没 天文16年7月24日1547年8月9日
主君 扇谷上杉朝興北条氏綱氏康
氏族 太田氏
父母 父:太田資康
北条氏綱の娘 ・浄心院
景資康資輝資
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太田 資高(おおた すけたか)は、戦国時代武将太田資康の次男[1]太田氏摂津源氏の流れをくむ。妻は北条氏綱の娘。子に太田康資

はじめ扇谷上杉家上杉朝興に仕えていたが、祖父道灌謀殺の恨みか朝興に不満を持ち、その宿敵に当たる北条氏綱と通じて朝興の居城・江戸城を奪った。その後、朝興は二度と江戸城を奪い返すことはできなかった。ちなみに本城には、北条家臣富永直勝、二の丸には遠山直景が入り、資高は香月亭へ配置された。

脚注

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  1. ^ 最近の研究では資高は資康の子ではないという見方もある。
先代
太田資康
江戸太田家当主
太田資高
次代
太田康資