奈良屋茂左衛門
表示
奈良屋 茂左衛門(ならや もざえもん)は、江戸時代中期の江戸の材木商である。
来歴
[編集]通称奈良茂(ならも)。姓は神田(かんだ)。4代目勝豊が知られ、勝豊を初代とする数え方もある。奈良屋は寛永年間(1624年 - 1644年)以降、代々江戸・深川霊岸島(れいがんじま)に住んだ。
『江戸真砂六十帖』に拠れば、初代勝儀、2代目勝実、3代目豊勝までの茂左衛門は、裏店住いの車夫ないしは小揚人足などをして言われるが、4代目が大成した後の由緒書きで誇張が含まれるとも指摘される。
4代目勝豊(寛文2年(1662年)? - 正徳4年6月13日(1714年7月24日))は、2代目茂左衛門の子。幼名は茂松、あるいは兵助。号は安休。材木問屋の「宇野屋」に奉公し、『江戸真砂六十帖』に拠れば28歳で独立。材木商として明暦の大火や日光東照宮の改築、将軍綱吉の寺社造営などを契機に御用商人となり、一代で急成長したという。吉原の遊女を身請けするなど、紀伊國屋文左衛門に対抗して放蕩の限りを尽くしたという。その後は材木商を廃業し、家屋敷を買い集めて地代収入を得る。
勝豊の子である5代目広璘(元禄8年(1695年) - 享保10年9月3日(1725年10月8日))と、分家した弟・勝屋の代に遊興で家産を使い果たし同家の経営は衰退したという。
→「奈良茂左衛門」を参照
6代目勝屋は5代目の兄広璘の没後に跡を継ぎ細々と足袋屋をしていたようだが、それでも1744年(延享元年)には幕府から買米を命じられており、7代目の頃にも江戸町会所で有力商人に揚げられている。子孫は、大正年間(1910年代 - 1920年代)まで千住で質屋を営んでいたと言われる。