奉明県
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奉明県(ほうめい-けん)は、紀元前65年から紀元1世紀初めまで、中国の前漢の時代に置かれた県の一つである。京兆尹に属した[1]。現在の陝西省西安市にあった。
歴史
[編集]征和2年(前91年)に前漢の武帝の皇太子劉拠が謀反して殺されたとき、太子の子劉進(史皇孫)も妻の王夫人とともに殺された。劉進と王夫人の墓は、広明苑の塁壁の北に作られた[2]。後に劉進の子が皇帝(宣帝)になり、本始元年(前73年)7月に太子らの処遇を改めるよう詔した。そこで、父母の墓を改葬し、所在地である広明成郷を悼園とし、奉邑300家を置いた[3]。8年後の元康元年(紀元前65年)5月、悼園に廟を建て、1600戸をもって奉明県を設置することにした[4]。
平帝の元始年間(西暦1年-5年)に、当時大司馬の王莽が奉明園の廃止を奏上して裁可された[5]。当然、県も廃止されたと考えられる。