奥並継
奥 並継(おく なみつぐ、文政7年(1824年)12月 - 明治27年(1894年)2月26日)は、幕末・明治期の志士、国学者、書家、明治期日本の大蔵官僚である。字は子紹、菱池(菱池は宇佐神宮境内の池名)と号す[1]。
略歴
[編集]豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮祠官漆島姓の奥氏の養嗣子になる。12歳で広瀬淡窓の門に入り、後に帆足万里に学んだ。
嘉永5年(1852年)、宇佐神宮官人代に任じられ、従五位下対馬守に叙せられた[2]。安政2年(1855年)、江戸に出て平田篤胤の門に入り国学を修めた[3]。
文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。丁度三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し直ちに宇佐に帰り、豊前国、豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟の時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した[3]。
明治3年(1870年)、神祇少史に任られ、神祇権大史に遷り、陸軍省(佐賀の乱、台湾出兵に従軍)、東京府、開拓使官吏(屯田兵の長として西南戦争に参加、のち明治15年(1882年)開拓使廃止まで開拓事業推進に従事)、大蔵省(開拓会計残務整理委員)、修史局四等編修官(北海道史及びアイヌ研究の著書をまとめる)を歴任し、正七位に叙せられ[要出典]、明治19年(1886年)に官吏を勇退。
退官後は菱池翁とよばれ、斯文学会幹事。大日本中学会を創設し、自ら会長。また「東発」という義塾を創設し、熱心に青少年を教育した。明治27年(1894年)2月26日、71歳で逝去。城北谷中天王寺に葬られた[4]。
君名並継。字子紹。號二菱池一。本姓藤波氏。幼承二宇佐祠官奥氏後一。及レ長襲レ職。任二對馬守一。叙二従五位下一。方二幕府末造一。国家多虞。君慨然憂レ之。遊二京師一。結二交志士一。密二議時事一。長藩得二罪朝廷一。與二薩藩一交悪。君素與二西郷隆盛桐野利秋等一善。居レ間圖二調停一。事竟解。既歸レ郷。志士往二来二豐間一者。訪問相踵。幕吏疑三其有二異謀一。収二君及弟重明一。下二獄於日田一三年。王室中興。冤始得レ白。明治三年任二神祇少史一。遷二權大史一。歴二官陸軍省東京府開拓使大蔵省一。進二修史局編修官一。叙二正七位一。君年十二入二廣瀬淡窓門一。後従二遊帆足萬里一。在二江戸一従二平田篤胤一修二国學一。興二郷校於宇佐一訓二子弟一。晩年罷レ官。爲二斯文學會幹事一。又創二大日本中學會一。設二義塾一曰二東發一。二豐子弟負二笈東京一者皆依焉。君提撕誘掖。毫無二倦色一。爲レ人廉潔淳正。與レ人不レ設二城府一。有二來依託者一。竭レ力庇助。必得二其所一而後已。状貌豐肥。性嗜レ酒。醉則賦レ詩詠レ歌。逌然自適。又好二筆礼一。至レ老益篤。有レ得二於晋唐書法一。廿七年二月廿六日歿。年七十一。葬二谷中天王寺兆城一。配渡邊氏。子女各三。長子某夭。次豐彦嗣。長女適二末広嚴石一。餘夭。豐彦裒二輯君遺文一爲二若干巻一。曰二菱池遺稿一。藏二于家一。他蝦夷風俗彝纂。開拓使事務報告。各若干巻。奉二使廰命一撰。君本生考諱榮順。妣並松氏。生二二子一。長即君。次重明。嗣二時枝氏一。先世爲二宇佐彌勒寺堂司一。奉二祀宇佐神祠一。至二考家衰一。發レ憤經紀。遂饒二于財。慨二神祠毀壊歳久一。常有二復舊之志一。因納レ資。使三君嗣二奥氏一。君至二江戸一。請二幕府一修二繕之一。淹留四歳得レ允。輪奐之美。有レ踰二於往昔一。善繼二紹志業一。可レ謂レ不レ負二名字一矣。中興前後。起二身詞官一。慷漑憂レ国者。世不レ乏二其人一。然志過二於憤一レ時。行専二於守一レ舊。往々流入二詭激一。君則和平篤厚。怡然自得。能以二文學一終始。而憂国之念。未三嘗忘二乎懐一。中行令レ終。有レ異二於世流一焉。豐彦撰レ状。問二銘於予一。予與レ君交善。誼不レ可レ辭。據二状次第一。掲二之於石一。銘曰。面如レ棗 鬚似レ銀 其気和 其貌温 善接レ人 克事レ神 神攸レ祐 壽全レ身 佳城爵 爰妥レ魂 徳無レ忘 銘不レ磷
明治卅一年歳在戊戌第一月
正四位文學博士 重野安繹 撰 — 奥並継の墓碑銘、「菱池奥君墓碑銘」東大教授文学博士重野安繹の撰[5]
奥並継は字を子紹、号を菱池といった(菱池は宇佐神宮境内地の池名である)豊前宇佐の藤波氏に生まれたが、宇佐宮祠官奥氏を継いだのである。年十二にして広瀬淡窓の入り後帆足万里に学んだ。安政二年(一八五五)江戸に出て平田篤胤の門に入り、国学を修めた。その後一旦郷里豊前宇佐に帰り、祠職を襲ぎ宇佐神宮に奉仕した。傍ら吉成明正等と謀り郷校を建て子弟を教育した。しかしそれのみではあきたらず、文久三年(一八六三)飄然して京都に出遊し、憂国の志士と交わりこれから国事疾走の生活が始る。その頃長州藩は朝廷に罪を得ていた為に並継は西郷隆盛、桐野利秋等薩摩の士と善くしたので土藩の坂本中岡等と共に両藩の調停をはかり、功を奏した。丁度七卿落ちとなり勤王攘夷党の蹉跌をみるや、憤慨し故国に帰り、二豊の志士等と語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、三年を経て即位の大赦により出獄した。出獄の後明治三年神祇少史に任じ、権大史に遷り、陸軍省、大蔵省等に歴任明治十五年修史局編集官となり、明治十九年辞職したが斯文会幹事になったり、大日本中学会会長として育英事業に尽力した。明治二十七年七十一歳にて東京で客死した。
著書に菱池遺稿がある。上下二巻に分れ、上巻には伊東竹園の序文及び重野安繹の墓碑銘を始めとして、菱池の書き与えた、書、序文、袚文、墓碑銘等が収められ、下巻には菱池の詩集が収められている。これ等のものは詩文の道から別としても、何れも幕末の青年学徒が国学を学び、儒学更に洋学を学びとって、新しい国造りに役立たせようとしている。近代日本の揺籃期を物語る烈々たる気概が示されて興味深いものがある。(中野幡能) — 『菱池遺稿』奥並継著の解題、「奥並継とその遺稿」大分県立芸術短期大学名誉教授文学博士中野幡能[3]
著書
[編集]- 『菱池遺稿』(巻上・巻下)奥菱池(並継)著 奥豊彦編[7]
- 『蝦夷風俗彙纂』前後編 肥塚貴正編 奥並継「蝦夷風俗彙纂序(代)」校[8]
- 『初学文範 巻之1-3 岡松甕谷撰 奥並継 野中準 編并評』[8]
- 『開拓使事業報告』若干巻撰 大蔵省編[9]
- 『農事要略』300-139 2巻 刊明治20 臨地社
逸話
[編集]- 詩文にすぐれ、書道は晋唐の書風を得、人に頼まれ碑文やその他重要な文字を書くときには、朝から斎戒沐浴し精神を清め、雑念を払い、文字に一念を集中し筆をとったという。また、友人の重野安繹は八面玲瓏な人格者と氏の行状を讃している。[10]
- 札幌市の大通公園の「開拓紀念碑」の文字は、奥並継が拓字法を用いて、王羲之の『黄庭経』および『孝女曹娥碑』中の字をとり、400倍の大きさに書したもの[11]。
- 「奥氏漆島門」は、八幡宇佐宮官人代・従五位下対馬守、奥氏漆島並継の屋敷の表門である。現在は宇佐市極楽寺の山門として、使用されている。[12]
家族・親族
[編集]- 妻の千賀子は、渡邊氏の出。
- 長男は夭死し、次男の豊彦が継いだ。長女のヨシは大審院判事・末弘厳石に嫁ぎ[13]、法学者・末弘厳太郎と那賀(池田克夫人)の母となる。
- 宇佐弥勒寺寺務の時枝氏を嗣いだ時枝重明(維新の志士、宇佐神宮権禰宜、初代宇佐町長)は実弟[14]。
- 剣道家・中尾直勝は親族。
脚注
[編集]- ^ 君の名は並継、字は子紹、菱池と号す。『大分県史料(23)第八部二』菱池遺稿・(「菱池奥君墓碑銘」重野安繹撰)(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)
- ^ 『大分県史料(23)第八部二』菱池遺稿・(「菱池奥君墓碑銘」重野安繹繹撰)(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)『大分県史料(29)13』八幡宇佐宮神官次第p341
- ^ a b c 『同上』菱池遺稿・(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)
- ^ 『同上』菱池遺稿・(「菱池奥君墓碑銘」重野安繹撰)(解題「奥並継とその遺稿」中野幡能著)(「先考行述」奥豊彦著)『宇佐郡誌』(編纂兼発行・宇佐教育会P171)『大宇佐郡史論』(19)奥並継、編者小野精一、宇佐市役所p746p747
- ^ 『大分県史料(23)第八部先賢資料二』菱池遺稿・(「菱池奥君墓碑銘」重野安繹撰p117p118)
- ^ 『同上』菱池遺稿・(「序」竹園 伊東茂右衛門識)
- ^ 同著書、大東文化大蔵書館板橋校舎蔵書
- ^ a b 同著書、早稲田大学蔵書目録
- ^ 同著書、公開者国立国会図書館
- ^ 並継は詩文にすぐれ…行状を讃している。(『大宇佐郡史論』(19)奥並継、編者小野精一p745)
- ^ 文化資料室(文化資料室ニュース第2号)/札幌市(http://www.city.sapporo.jp/bunkashiryo)
- ^ 奥並継の証書を宇佐市極楽寺で所有
- ^ 長女、末広厳石に嫁ぐ。(『菱池奥君墓碑銘』重野安譯撰)
- ^ 『大分県歴史人物事典』大分合同新聞社 時枝重明P345)
参考文献
[編集]- 大分県史料(2)第一部宇佐神宮 奥文書。大分県史料(23)第八部『菱池遺稿』 奥並継著。大分県史料(29)一三 八幡宇佐宮神官次第。大分県史料刊行会編纂 発行者大分県立教育研究所
- 『大宇佐郡史論』編者小野精一 発行所宇佐市役所 昭和6年初版 昭和47再版『宇佐郡誌』編纂兼発行 宇佐郡教育会 昭和4年初版
- 『大分百科事典』大分放送 1980年(昭和55年)
関連書籍
[編集]- 中尾賢吉『随筆集 雪の宿―仁愛、熱情の人(文人志士奥並継の生涯)―死を以て、物申す(津田一伝流祖津田正之)―故郷忘じ難し(頼厳上人の祈り)』文藝春秋企画出版部 2013年