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奥寺 八左衛門(おくでら はちざえもん、寛永3年(1626年)8月 - 貞享3年1月7日(1686年1月30日))は、江戸時代前期の武士、治水家[1]。名は定恒[1]。通称は初め市之丞[1]。父の右馬丞則定は慶長5年(1600年)の岩崎一揆の際に活躍した浪人[2]。
陸奥国津軽郡奥寺村に生まれた[2]。浪人ののち盛岡藩士となり、作事奉行などを務める[2]。寛文5年(1665年)から和賀郡村崎野の新田開発に着手[1]。和賀川から2本の堰を通し、延宝7年(1679年)6891石の新田(奥寺新田)を拓いた[1][2]。
大正4年(1915年)、従五位を追贈された[3]。