奥平俊蔵
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奥平 俊蔵 | |
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生誕 |
1875年12月25日 日本 東京府 |
死没 | 1953年3月4日(77歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1896年 - 1924年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
奥平 俊蔵(奥平 俊藏、おくだいら しゅんぞう、1875年(明治8年)12月25日 - 1953年(昭和28年)3月4日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功五級[2]。
経歴・人物
[編集]東京府人・奧平定盛の四男として生まれ、1915年(大正4年)甥の石之助方より分れて一家を創立する[2]。
1896年(明治29年)陸軍士官学校第7期卒業[3][4]。のち1902年(明治35年)陸軍大学校第16期卒業[3][4]。
参謀本部部員、留守第18師団参謀長、1915年(大正4年)4月に本郷連隊区司令官、1916年(大正5年)4月に陸軍歩兵大佐、同年8月に陸軍省軍務局歩兵課長、1919年(大正8年)4月に第1師団司令部附、同年12月に航空第4大隊長を経て、1920年(大正9年)8月に陸軍少将・中支那派遣隊司令官に任官[1][2][3]。
その後、1922年(大正11年)8月に歩兵第2旅団長、1924年(大正13年)2月に第5師団司令部附を経て、同年12月15日に陸軍中将に昇進と同時に待命、同月20日に予備役に編入した[3][4]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章
著作
[編集]- 述『国際間ノ平和ハ果シテ永続性アリヤ』豊道会、1926年。
- 『政治及民心ノ指導原理タル国体』恢弘会、1937年。
- 述『国体の根本血と魂』日本協会出版部、1940年。
- 栗原宏編『不器用な自画像―陸軍中将奥平俊蔵自叙伝』柏書房、1983年。
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b 『日本陸軍将官辞典』183頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録』第8版、オ216頁。
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』125頁。
- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』184頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」122頁。
- ^ 『官報』第182号「叙任及辞令」1913年3月11日。
- ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
- ^ 『官報』第3723号「叙任及辞令」1925年1月22日
- ^ 『官報』第3258号「叙任及辞令」1923年6月11日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 山口市の幕末維新の歴史|幕末山口諸人往来|、2019年5月6日閲覧。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。