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奥平昌鹿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
奥平昌鹿
奥平昌鹿像(自性寺蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 延享元年7月15日1744年8月22日
死没 安永9年7月24日1780年8月24日
改名 熊太郎、昌鹿、昌邦
墓所 東京都品川区北品川の東海寺
官位 従五位下大膳大夫
幕府 江戸幕府
主君 徳川家重家治
豊前中津藩
氏族 奥平氏
父母 奥平昌敦牧野貞通の娘・菊子
兄弟 昌鹿池田喜生山野辺義風
正室阿部正允の娘
側室:桜川萩野
昌男池田斉政婚約者、鼎、磐磨、高子
養女板倉勝従正室
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奥平 昌鹿(おくだいら まさしか/まさか)は、江戸時代中期の大名国学者豊前国中津藩の第3代藩主官位従五位下大膳大夫。中津藩奥平家7代。

生涯

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第2代藩主・奥平昌敦の長男として誕生。幼名は熊太郎、後に昌邦。

賀茂真淵国学を学ぶ。宝暦8年(1758年)、父・昌敦の死去後、15歳で家督を継ぐ。「訴平賦均録」という法令集を編纂して、藩政に尽力した。また、家臣の儒学藤田敬所らを政治批判させ、それを藩政改革に取り入れ、質素倹約を励行させた。

藩医であった蘭学者の前野良沢を保護し、蘭学を奨励した。良沢の号「蘭化」は、昌鹿が良沢を「蘭学の化け物」と称したことに由来する。

安永9年(1780年)に死去し、跡を長男の昌男が継いだ。墓所は東京都品川の東海寺

系譜

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