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奥平貞臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奥平 貞臣(おくだいら さだおみ、寛政5年3月17日1809年5月1日) - 明治23年(1890年8月25日))は、伊予松山藩筆頭家老、奥平藤左衛門家8代当主。俳人

父は奥平貞熈。養父は奥平昌蔭。子は奥平貞操。幼名は隼人。は貞臣、昌壽。通称は弾正、山城。号は鶯居(おうきょ)。

生涯

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文化6年(1809年)3月17日、伊予松山藩家老の奥平貞熈の長男として松山に生まれる。文政9年(1826年)、大名分となり擬米200俵。文政12年(1829年)、家老となり擬米300俵。文政13年(1830年)、家老奥平昌蔭の養子となる。天保9年(1837年)、江戸城西丸炎上の際に、江戸藩邸の藩士を率いて江戸城内紅葉山の警備に当たる。天保14年(1843年)、家老を免じられる。弘化5年(1848年)、養父の死去により家督と知行3300石を相続、大名分、組頭として与力を預かる。嘉永3年(1850年)、家老に復帰。

安政3年(1856年)、藩主松平勝成家督相続御礼言上の際に、将軍徳川家定に拝謁。同年家老を免じられる。文久元年(1861年)、家老に復帰。元治元年(1864年)、禁門の変の際、御所警護のために松山より藩兵を率いて出陣。7月16日に京に到着し、紙屋川警備に就く。19日長州軍が間道から下立売門に向かった知らせを受け、兵を下立売門に向けるも戦闘の終了した後であった。明治元年(1868年)、隠居して家督を嫡男の貞操に譲る。

明治23年(1890年)8月25日死去。享年82。

俳人・奥平鶯居として

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貞臣は、俳人奥平鶯居としても知られる。地元松山の塩見黙翁、江戸の田川鳳朗の門人となり俳諧を学ぶ。後に俳諧宗匠として、大原其戎とともに伊予俳壇の中心人物となり、中央俳壇にもその名を知られた。句集に『梅鶯集』を残す。明治14年(1881年)6月、『愛比売新報』の別冊俳誌『俳諧花の曙』を創刊しその選者となる。

代表的な句

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  • 風雲をずんずとぬけて冬の月
  • 時鳥花のまほろし消えにけり

参考文献

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  • 『松山叢談』
  • 『愛媛県史』
  • 『愛媛県誌稿』