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始末の極意

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

始末の極意(しまつのごくい)は古典落語の演目の一つ。同題は上方落語での演題であり、東京ではしわい屋(しわいや)の題で演じられることが多い。

概要

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吝嗇(りんしょく=ケチ)な人物による、度を越した「始末(=節約)」の方法が多く登場する噺である。

登場する節約法は、『片棒』、『位牌屋』、『味噌蔵』といった演目のマクラに小咄として差し挟まれることが多い。

初代桂春輔は『節約デー』という題で演じ、SPレコードが残されている。

三ボウ

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かつて寄席においては、どんな階層の観客にも不快をもよおさせない、とされるネタの主題が規定され、それぞれの語尾から「三ボウ」と呼ばれた。

  • 泥棒 - どんなに悪く言っても、自ら名乗り出るがごとく怒鳴り込んで来る泥棒はいない。
  • けちん坊 - わざわざ金を出して噺を聴きに来る客に、ケチな人はいない。
  • つんぼう(つんぼ) - 耳の聞こえない者は落語を聴きに来ない。

この演目のマクラには、よくこの「三ボウ」の紹介が用いられたが、「つんぼ」がいわゆる放送禁止用語となっていて、手話落語が演じられている今日では、差し障りがないとは言いがたく、あまり口演されない。

あらすじ

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演者はまず、以下のような吝嗇家の登場する小咄をいくつか紹介する。それぞれの小咄は、本題の登場人物の会話に取り入れられる場合もある。

  • ケチの人間を俗に「六日知らず」という。なぜなら一般に日付を勘定するときには、「1日、2日」と指を折っていくが、吝嗇家は6日目を勘定しようとすると、一度握った手を開くのが惜しくなってしまう。
  • ある男の向かい側の家が火事で丸焼けになった。それを知った男は、妻に焼け跡から種火を取って来させようとした。当然、相手は怒る。男はふてくされ、「今度こっちが火事になっても、火の粉もやらん」
  • ある大商店の主人は、10人の使用人を雇っていたが、節約のために5人にする。それでも仕事に余裕があるので、その5人も解雇し、夫婦だけで経営を続ける。主人は自分ひとりでも仕事が間に合う、というので妻と離縁し、最後には自分自身もいらない、と自殺してしまう。
  • ケチの親子が散歩をしていると、父親が誤って川に落ちてしまう。泳げない息子は通行人に助けを求めるが、ケチの通行人は「助けはお代次第」という。値段交渉になり、2千円、3千円、4千円と値が釣り上がっていく。沈みかけている父親が叫んでいわく「もう出すな! それ以上出すなら、俺は潜る(または、「それ以上出すぐらいなら、もう死んでしまう」)」
  • 商店の内壁に釘を打つことになり、主人は丁稚の定吉に、隣家からカナヅチを借りてくるよう命じるが、定吉は手ぶらで帰ってきた。隣家の主に「打つのは竹の釘か、金釘か」と聞かれ、定吉が金釘だ、と答えると、「金と金(金属同士)がぶつかるとカナヅチが擦り減る」と言って貸してくれなかったという。主人は隣人のケチぶりにあきれ果てて、「あんな奴からもう借りるな。うちのカナヅチを使おう」
  • ある男が、目が2つもあるのはもったいない、と考えて、と片方のまぶたを縫い合わせてしまった。十数年後、開いている方の目が眼病で見えなくなってしまう。ここぞとばかりに片目の縫い合わせを解くと、世間は見知らぬ人ばかりだった。

あるケチを自認する男は、始末の指南を請うため、たびたび「吝嗇の大家」のもとを訪れている。男がある暑い日に吝嗇家を訪ねると、吝嗇家は汗ひとつかいていない。彼の頭上には、大きな石が細い糸で吊るしてあり、いつ落っこちてくるか、という恐怖感から涼しく感じていられる、と言う。

男は「1本の扇子を10年もたせる方法」を考案した、と言い出す。半分だけ広げて5年あおぎ、次の5年でその半分をたたんで、残りの半分を広げて使う、というものだ。吝嗇家は「始末はしてもケチはしてはいかん」と評し、「わしなら孫子の代まで伝えてみせる。扇子は動かさんと、顔の方を動かす」。

吝嗇家が男に「最近の食事はどうしているのか」と訊くと、男は「おかずは無駄なので、3度3度の飯は、玄米に塩をかけて食べていたが、近頃はその塩が減るのももったいないと、1個の梅干しの皮を朝に食べ、果肉を昼に食べ、種は夜にしゃぶり、味がなくなったら種を割り、中の天神を食べて、1日もたせている」と答えた。それを聞いた吝嗇家は、「梅干し1日1個など大名並みの贅沢」と評する。吝嗇家によれば、そもそも梅干しは食べるものではなく、眺めていると自然に出てくるつばをおかずにして飯を食べるためのものであって、梅干しに飽きたらザクロ夏みかんでつばを出すのだ、という。また、吝嗇家はかつてうなぎ屋の隣に住んでおり、飯時になると、うなぎ屋から流れてくるかば焼きを焼く匂いをおかずにして飯を食べていたが、それを知ったうなぎ屋が、月末に「匂いは客寄せに使(つこ)てるさかい、代金を支払え」と言って家に乗り込んできたという。そのとき吝嗇家は財布を出したものの、金を渡さずにうなぎ屋の目の前で落として音を鳴らし、「『嗅ぎ代』やさかい、音だけでよかろ」。この話を聞いた男は感服する。このほか、吝嗇家によって数々の節約術(鰹節を買わずにだしをとる方法、賽銭を節約する方法など)が語られる[1]

男は「始末の極意」を吝嗇家に問う。吝嗇家は男に対し、あらためて夜に来るよう言う。男が再訪すると、吝嗇家は男に裏庭に出るよう命じる。外に出ようとすると、玄関が暗くて足元がわからない。吝嗇家にマッチを借りようとすると、「そこに掛かってる木づちで目と目の間をどつけ(殴れ)。目から出た火で下駄探せ」。

庭に着き、男は言われるまま、ハシゴを松の木の枝にかけて登り、1本の枝に両手でつかまりぶら下がる。すると、吝嗇家は突然はしごをはずす。怖がる男に吝嗇家は、まず左手を枝から放すように命じる。男は次に右手の小指だけを枝から離させられ、その次に薬指も、さらに「たかたか指」も、と順に命じられ、残る人差し指と親指だけで枝をつかんでいる状態になってしまった。さらに指をはずせ、と言う吝嗇家に、男が「人差し指は、よう離しません」と叫ぶと、吝嗇家は男の右手と同じように人差し指と親指で丸を作って示し、

「これ、離さんのが極意じゃ」(人差し指と親指で丸を作るサインは、日本では金銭を示すボディーランゲージである)。

バリエーション

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  • 東京では極意を問う松の木のシーンが省略され、暗くなったので男が帰宅しようとする、という展開で終わることが多い。その場合、玄関の木づちのシーンで、客の男が「目の火花で下駄を探させられるだろうと思って裸足で来た」と言い、吝嗇家が「裸足で来るだろうと思って、部屋じゅうのを裏返しにしておいた」と言い返して噺を終える。

脚注

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  1. ^ アーサー・ビナードの『亜米利加ニモ負ケズ』(日本経済新聞出版社)にはアメリカにFree Smellと書かれた看板があって、調べてみると16世紀のフランスに「匂い泥棒」という話があったという。肉のローストした匂いでフランスパンを食べる男の話である。