姚光
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姚 光(よう こう、? - 121年)は、後漢の玄菟太守[1]。
人物
[編集]後漢の光武帝の建武8年(32年)、高句麗の大武神王は、使者を派遣して後漢に朝貢し、その時、はじめて王と称した。殤帝・安帝の時代(105年から125年)になると、高句麗の太祖大王は、たびたび遼東に侵攻したため、後漢はあらためて高句麗を玄菟郡に属させた[1]。遼東太守の蔡風と玄菟太守の姚光は、太祖大王が遼東と玄菟の二郡に対して害をなすため、軍隊を派遣して討伐しようとした。しかし太祖大王は偽って降伏し、和議を要請したため、二郡は進軍しなかった[1]。それに対して太祖大王は、軍を派遣して玄菟を攻撃させ、候城を焼き、遼隧(現在の遼寧省鞍山市海城市)に侵入し、役人や民を殺し、遼東を侵犯した[1]。