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姜全我

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姜全我
『満洲紳士録』第三版(1940年)
プロフィール
出生: 1874年同治13年)[1][2][3]
死去: 1944年
満州国熱河省
出身地: 清の旗 盛京将軍管轄区金州[1][2][4][5]
職業: 軍人
各種表記
繁体字 姜全我
簡体字 姜全我
拼音 Jiāng Quánwǒ
ラテン字 Chiang Ch'üan-wo
和名表記: きょう ぜんが
発音転記: チアン・チュエンウォー(ジアン・チュエンウォー)
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姜 全我(きょう ぜんが、1874年[3]1944年)は、中華民国満洲国の軍人・官僚。字は暁峰

事績

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地元金州の私塾で学んだ後[4]奉天派の軍人となる。依蘭鎮守使署及奉天陸軍第4旅参謀長、奉天保甲総弁公署参議、奉天省防軍団長などを歴任した[6]

1931年(民国20年)に満洲事変が勃発すると、姜全我は第3旅旅長として鳳凰城関東軍と交戦したが、武装解除されて降伏した[7]。以後、姜は日本側に協力することになり、同年中に安東商埠公安局局長に任命された[1][5]1932年大同元年)6月、鴨緑江剿匪軍司令官となり、後に奉天警察隊指導部長兼警察大隊総隊長にもなった[4]1937年康徳4年)7月、瀋陽警察庁庁長となった[5]

1939年(康徳6年)、姜全我は首都(新京特別市)警察総監に任命される。この時の勤務状況が日本側から評価されたため[1]1941年(康徳8年)6月1日、姜は通化省長に抜擢された[8]1943年(康徳10年)9月13日、熱河省長に転じ[9]中国共産党八路軍対策に専念した[1]

1944年(康徳11年)、姜全我は県長会議での講話中に脳溢血で倒れ、同年中に死去した。享年71[1][10]

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  1. ^ a b c d e f 大連市史志弁公室(2002)、106頁。
  2. ^ a b 帝国秘密探偵社編(1943)、「満洲」104頁。
  3. ^ a b 満蒙資料協会(1943)、1143頁と外務省情報部編(1937)、634頁は「1883年生(光緒9年)」としているが、大連市史志弁公室(2002)と帝国秘密探偵社編(1943)に従う。
  4. ^ a b c 満蒙資料協会(1943)、1143頁。
  5. ^ a b c 外務省情報部編(1937)、634頁。
  6. ^ 姜全我の中華民国時代の経歴については資料により異なる点が多く、特に「奉天保甲総弁公署参議」については、帝国秘密探偵社編(1943)は満洲事変「後」、大連市史志弁公室(2002)と外務省情報部編(1937)は満洲事変「前」の就任としている。ここでは大連市史志弁公室(2002)の記載に従った。
  7. ^ 大正写真工芸所編(1931)、11頁。
  8. ^ 満洲国史編纂委員会編(1956)、131頁。
  9. ^ 満洲国史編纂委員会編(1956)、169頁。
  10. ^ 後任の熱河省長には、翌1945年(康徳12年)5月12日に孫柏芳が就任した。しかし、それまでの省長事務の運用については、明らかでない。

参考文献

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  • 大連市史志弁公室『大連市志 人物志』中央文献出版社、2002年。ISBN 9787507309836 
  • 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 外地・満支・海外篇』帝国秘密探偵社、1943年。 
  • 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第四版』満蒙資料協会、1943年。 
  • 外務省情報部編『現代中華民国満洲国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。 
  • 大正写真工芸所編『満洲事変の真相 新版』大正写真工芸所、1931年。 
  • 満洲国史編纂委員会編『満洲国年表 本編』満蒙同胞援護会、1956年。 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1