姫氏怒唎斯致契
姫氏怒唎斯致契 | |
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各種表記 | |
漢字: | 姫氏怒唎斯致契 |
発音: | {{{nihonngo-yomi}}} |
日本語読み: | きし ぬりしちけい |
姫氏怒唎斯致契(きし ぬりしちけい、生没年不詳)は、百済の使者。『日本書紀』欽明十三年十月条によると、欽明天皇十三年(552年)に百済聖明王の国使として仏像と経典等を携えて来日し、日本に仏教をもたらしたという。ただし、「仏教伝来の年次には諸説があり、怒唎斯致契の実在性もさだかでない」と指摘されている[1]。怒唎斯致契とも[1]。百済での官職は「達率」[2]。
姫氏怒唎斯致契の出自
[編集]韓国の『韓国民族文化大百科事典』は、怒唎斯致契は、百済聖明王の使者として日本に仏教を伝授した貴族…百済聖明王の命により、仏像と経典等を日本に齎し、天皇は大喜びし、日本に仏教が伝来した、と説明している[2]。
しかし、百済人の姓氏は、紀元前2世紀以来の濊や8世紀以降の統一新羅のような中国式姓名への改称はなく、固有語名を使用し続けた[3][4][5][6][7]。朝鮮古代史学者の金昌錫や全徳在は、怒唎斯致契の姓氏が「姫氏」(「姫氏」の「氏」は敬称。「蘇我氏」「中臣氏」など)という漢姓である事実に基づき、百済に帰化していた中国人と主張している[8][9]。
また、韓国の『斗山世界大百科事典』も、『日本書紀』には、怒唎斯致契の姓氏が「姫氏」と記されており、百済聖明王が天皇に送ったという「表」も後代に付け加えられたものと疑われており、また、日本に仏教が伝来した時期も多様な学説が存在するため、怒唎斯致契の実在性は確認できない、と説明している[10]。
姓氏が「姫氏」であるため、中国周の天子の後裔という指摘もある(中国周の国姓は姫)[11]。
考証
[編集]冬十月。百濟聖明王〈更名聖王。〉遣西部姫氏達率怒斯致契等。獻釋迦佛金銅像一躯。幡盖若干・經論若干卷。別表讃流通禮拜功徳云。…是日。天皇聞已歡喜踊躍。詔使者云。朕從昔來未曾得聞如是微妙之法。然朕不自决。 — 日本書紀、巻第十九
『日本書紀』欽明十三年十月条によると、百済聖明王は使者を遣わして仏像、経典等を天皇に献じ、「表」を添えて礼拝弘通をすすめたとされるが、この記事は、問題点が指摘されている[12]。
- 使者の「西部姫氏達率怒唎斯致契」という人名記載の問題。「西部」は百済五部の一つであるが、百済五部には王都内と王都外の二種があり、「西部」は都外の五部(方)に属す。『日本書紀』の百済人名記載例では、都外の五部を帯する人名がでるのは斉明天皇元年(655年)条以後であり、ここに「西部」がでてくることは不自然である[12]。
- 「姫氏」という姓氏が他に全く所見しないばかりでなく、姓氏は官位の次に記すのが普通である。「達率」は、百済の官位十六階のうちの第二位であり、そのような高官が日本に派遣されるのは6世紀に例がなく、百済の国家存亡が危急を告げる7世紀になってみられるものであり、「西部姫氏達率怒唎斯致契」の人名記載及び官位や五部の称号は、後世の観念で付加された可能性が高い[12]。
- 聖明王が天皇に送った「表」の問題。数田年治、飯田武郷、藤井顕孝が指摘したように、この「表」が『金光明経』の如来寿量品や四天王護国品に基づいて書かれていることは明白であり、『金光明経』は、唐の義浄が703年に訳出したものであり、それより150年以前の聖明王が利用することは不可能である。この「表」は、703年に長安で訳出された『金光明経』が、日本に伝えられたのち、参照して日本で書かれた[12]。
- 井上薫は、702年に入唐し、718年に帰朝した道慈が『金光明経』を日本に将来したと擬し、帰朝後の道慈が『日本書紀』の編纂に関与して、問題の「表」を含む仏教伝来記事を述作したと推論した。井上薫の推論によると、道慈が記事を述作したのは、道慈が帰朝した718年12月以後、『日本書紀』が完成する720年5月以前の、僅か1年半たらずの間になる。以上から、『日本書紀』欽明十三年条記事には、『日本書紀』編纂時における造作や潤色が加えられている[12]。
脚注
[編集]- ^ a b 日本人名大辞典+Plus『姫氏怒唎斯致契』 - コトバンク
- ^ a b “노리사치계(怒利斯致契)”. 韓国民族文化大百科事典. オリジナルの2022年10月2日時点におけるアーカイブ。
- ^ 伊藤英人『「高句麗地名」中の倭語と韓語』専修大学学会〈専修人文論集 105〉、2019年11月30日、378頁。
- ^ 21世紀研究会『カラー新版 人名の世界地図』文藝春秋〈文春新書〉、2021年11月18日、212頁。ISBN 4166613405。「現在、使われている中国式の姓が一般化したのは、中国から漢字が導入され、定着してきた七世紀以後と考えられている。『三国史記』や『三国遺事』では、高句麗・百済・新羅の始祖伝説にすでに中国式の姓が使われていたように記されているが、実際には神話上の話と解釈されている。高句麗の始祖・朱蒙は国名にちなんで「高朱蒙」と高氏を名乗ったり、百済では扶余族の始祖温祚は扶余氏という姓を名乗ったと伝えられている。新羅の始祖は、一説には、馬のいななきに導かれた先で見つかったヒョウタンのように大きい卵から生まれたという伝説から、ヒョウタン(パク)を意味する「朴」、あかあかと火が燃える様や光が明るく輝く様を営味する「赫」で朴赫居世となった。新羅では四代目の脱解王からは昔氏、一三代目の味鄒王からは金氏に受けつがれ、朴氏、昔氏、金氏となるそれぞれの始祖伝説をもっている。史書によると、三国時代は、始祖伝説に関係する者以外でいわゆる中国式の姓をもっている者はほとんどみられない。六世紀から七世紀に登場する高句麗の武将は「乙支文徳」、『日本書紀』に「伊梨柯須彌」の名で登場する高句麗の権力者は「淵蓋蘇文」、七世紀の百済の軍官は「鬼室福信」に「階伯」である。新羅の始祖の赫居世も別名は「弗矩内」ともいう。実際に、朝鮮半島で姓が生まれたのは、統一新羅時代になってからである。統一新羅の王族、貴族が中国・唐の文化を取り入 れるなかで、中国式に姓をもつようになっていったのだ。また、中国の姓をまねただけでなく、自分の住んでいる地名、周囲の山や川にちなんでつけられた名前もあったようだ。そして高麗時代になると、姓をもつことが一般化し、李朝時代には『経国大典』という戸籍台帳ができて、姓名制度が確立した。」
- ^ 文慶喆『韓国人の姓氏と多文化社会』東北文化学園大学総合政策学部〈総合政策論集: 東北文化学園大学総合政策学部紀要 19 (1)〉、2020年3月20日、117頁。「高麗、朝鮮時代を経て定着した中国式の漢字の姓氏が、多文化社会によって大きく変わろうとしている。…古代国家が成立する以前の単純な氏族社会においては、姓氏はなかったとされている。勿論、文献などによる記述の中で登場する表現は同族を表すものであり、今の様な姓氏とは異なると考えられる。原始社会においては、自然に母系社会になり、子供の出生は母方が明らかで、女から生まれるという「姓」の概念が生まれたと考えられる。しかし、人間社会は血縁関係から生まれ、血縁関係から発達したので、この血縁関係を中心とした氏族の観念が強く、他の氏族に対して自分達の名称の必要性を持つようになった。この名称が後に文字化して、「姓氏」の原型となったと考えられる。韓国においても同様で、三国時代から何らかの名称があったが、それは権力者を中心として使われていたと考えられる。高句麗王の「高氏」、百済王の「扶余氏」、新羅の「朴、昔、金氏」などがあるが、これはすべて漢字が齎してからの表記である。日本の『日本書紀』などの資料を見ても、朝鮮半島に7世紀以前には漢字の姓氏は見当たらない。この時姓氏を持つことは、集団の中で政治的、社会的特権であり、姓氏の獲得によって段々母系社会から父系社会に移行して行く。」
- ^ 文慶喆『韓国人の姓氏と多文化社会』東北文化学園大学総合政策学部〈総合政策論集: 東北文化学園大学総合政策学部紀要 19 (1)〉、2020年3月20日、118頁。「朝鮮半島では7世紀後半になる中国の唐との交流が活発になり、中央貴族や官僚を中心に漢字の姓氏が拡大して行く。…李重煥の『擇里志』には、高麗時代以降徐々に一般の人が姓氏を持つようになったと記している。」
- ^ 文慶喆『韓国人の姓氏と多文化社会』東北文化学園大学総合政策学部〈総合政策論集: 東北文化学園大学総合政策学部紀要 19 (1)〉、2020年3月20日、127-128頁。「韓国人の姓氏は、漢字の導入と共に今のような中国式の形が定着したと見られる。その中には韓国独自の姓氏もあるが、多くは中国の姓氏を借用したと考えられる。勿論、中には帰化によって中国伝来の姓氏も見られたり、日本由来の姓氏も見られた。歴史的には、特権階層だけが持っていたこの姓氏が、一般の人にまで広がるのは高麗時代の文宗(1047年)が実施した科挙の試験が大きく影響する。科挙試験には姓名を持つことが条件であり、試験を受けるために一般の人にまで広がるきっかけとなった。」
- ^ 김창석『中國系 인물의 百濟 유입과 활동 양상』韓国外国語大学歴史文化研究所〈역사문화연구 60〉、2016年11月、80頁。doi:10.18347/hufshis.2016.60.55。
- ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學東洋學硏究院): p. 110. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。
- ^ “노리사치계 怒利斯致契,?~?”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2022年10月1日時点におけるアーカイブ。
- ^ 松岡静雄 編『日本古語大辞典』刀江書院、1929年、144頁。
- ^ a b c d e 薗田香融『東アジアにおける仏教の伝来と受容』関西大学東西学術研究所〈関西大学東西学術研究所紀要 (22)〉、1989年3月、19-20頁。