コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

孫宝琦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
孫宝琦
プロフィール
出生: 1867年4月26日
同治6年3月22日
死去: (1931-02-03) 1931年2月3日(63歳没)
中華民国の旗 中華民国上海市
出身地: 清の旗 浙江省杭州府銭塘県
職業: 政治家外交官
各種表記
繁体字 孫寶琦
簡体字 孙宝琦
拼音 Sūn Bǎoqí
ラテン字 Sun Pao-ch'i
注音二式 Suēn Bǎuchí
和名表記: そう ほうき
発音転記: スン・バオチー
テンプレートを表示

孫 宝琦(そん ほうき)は、清末民初政治家外交官。清末の外交官であり、民国時代には北京政府で外交総長や国務院総理(内閣総理)を歴任した。慕韓

事跡

[編集]

父の孫詒経は戸部侍郎であり、光緒帝の教師も務めた事がある。1900年光緒26年)、八カ国連合軍北京を占領すると、孫宝琦は西安に避難した光緒帝に従った。1901年(光緒27年)から、ドイツスペインポルトガルフランスなどの公使館の随員を務める。

1902年(光緒28年)7月、出使法国大臣(フランス公使)に昇進した。1905年(光緒31年)に帰国し、署順天府尹に任命。1907年(光緒33年)4月、出使徳国大臣(ドイツ公使)に赴任した。1908年(光緒34年)に帰国し、幇弁津浦鉄路大臣に任命。1909年宣統元年)、山東巡撫となり、山東省におけるドイツの鉱山利権取得の動きを掣肘している。

1913年民国2年)6月、北京政府の承認と孫文に対する支援の中断を要請するため、袁世凱の特使として李盛鐸と共に日本を訪問した。同年9月、熊希齢内閣の外交総長に任命。1914年(民国3年)2月12日、代理国務総理を兼ねて同年5月1日まで在任した。第一次世界大戦の勃発に際しては中立を維持した。1915年(民国4年)1月、日本の対華21カ条要求により外交総長を辞任し、審計院長に転じた。1916年(民国5年)4月、段祺瑞内閣の財政総長となり、同年6月からは漢冶萍公司董事長(理事長)・税務督弁に、1919年(民国8年)には招商局董事会会長にそれぞれ任じられた。1920年(民国9年)2月、経済調査局総裁となった。

1922年(民国11年)1月、揚子江水道討論委員会会長を、同年4月、外交部太平洋会議善後委員会副会長を、それぞれ務める。1924年(民国13年)1月12日、国務総理に再任され、外交委員会委員長も兼ねた。国務総理在任時、孫宝琦は「奉行憲法」や「平和統一」の施政方針を示す一方、ソ連との国交成立やドイツとの戦時賠償交渉を解決したが、王克敏財政総長との不和のために同年7月2日に辞任した。1925年(民国14年)2月、淞滬商埠督弁となった。同年8月、駐ソ大使に任じられたが、就任しなかった。1926年(民国15年)、中法大学董事長を務める。

1931年(民国20年)2月3日、上海で死去。享年65。

参考文献

[編集]
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 清の旗
先代
袁樹勛
山東巡撫
1909-1911
次代
胡建枢
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
陸徴祥
外交総長
1913年9月 - 1915年1月
次代
陸徴祥
先代
熊希齢
臨時国務総理
1914年2月 - 5月
次代
徐世昌(政事堂国務卿)
先代
周学熙
財政総長
1916年4月 - 6月
次代
周自斉
先代
高凌霨
国務総理
1924年1月 - 7月
次代
顧維鈞