宇須岸館
宇須岸館 (北海道) | |
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函館奉行所跡地のある、元町公園 | |
別名 | 箱館、宇須岸河野館、河野氏館 |
城郭構造 | 平城 |
築城主 | 河野政通 |
築城年 | 1454年(享徳3年) |
主な城主 | 河野氏 |
廃城年 | 不明確 |
遺構 | なし、案内板のみ |
指定文化財 | なし |
位置 | 北緯41度46分0.5秒 東経140度43分35.3秒 / 北緯41.766806度 東経140.726472度座標: 北緯41度46分0.5秒 東経140度43分35.3秒 / 北緯41.766806度 東経140.726472度 |
地図 |
宇須岸館(うすけしだて)は、河野政通によって築かれた北海道函館市にあった城。
道南十二館のうちの一つ。函館(箱館)の地名の由来となったとする説がある[1]。
名称の由来
[編集]アイヌ語で「ウスケシ(湾の端)」「ウショロケシ(入江の端)」、[2][3]と呼ばれていたところを、和人が「宇須岸」、「臼岸」(読みは共にウスケシ)とあてたとされる。そこに河野氏が館を立てたことで、「宇須岸館」と呼ばれるようになった。
箱館の地名の由来は、その館が箱の形に似ていたため[2]とされているが、詳しくは函館市#地名の由来を参照。
歴史
[編集]注:ここでの箱館とは、特に断りのない限り、現在の函館市や旧亀田市の範囲を指すものではなく、宇須岸館周辺の地域を指すこととする。
1454年(享徳3年)、河野政通と、武田信広らが蝦夷地に渡来した。政通は、ウスケシと呼ばれていた土地(現在の函館市元町公園あたり)に、東西に約60m、南北に約50mの館を築いた[4][5]。四方に土塁や乾濠をめぐらしていたとされる。
1457年(長禄元年)、コシャマインの戦いで道南十二館のうち、同館を含む十館がアイヌによって攻め落とされた[6]。このとき、政通は討ち死にしたといわれるが諸説ある。1512年(永正9年)、ショヤ・コウジ兄弟の戦いによって、河野季通が敗れたため、箱館のあたりは以後百余年にわたって衰微し、和人らは亀田(現在の函館市亀田地区)周辺に移り住んだとされる[4][7]。その後の宇須岸館は、自然廃館したと予測されるが、詳細は不明[6]。
18世紀初頭(元禄時代末)、再び亀田周辺より箱館周辺に住民が流入し、それに伴い寺院なども移転し始め、箱館港の発展が顕著になった。1741年(寛保元年)、松前藩のこの地域の行政庁である「亀田番所」が宇須岸館跡地に移された[4][6]。
1799年(寛政11年)、幕府は東蝦夷地を直轄地とし、1802年(享和2年)には、箱館奉行所の庁舎も跡地に置かれた。明治には開拓使の庁舎、戦後も北海道庁函館支庁庁舎など、宇須岸館跡は函館の政治の中心であり続けた。
アクセス
[編集]- 函館市弥生町元町公園周辺
- 最寄りの電車停留所:末広町(すえひろちょう、函館市電)
出典
[編集]- ^ “函館市の概要”. www.city.hakodate.hokkaido.jp. 2024年8月30日閲覧。
- ^ a b “函館市の概要”. www.city.hakodate.hokkaido.jp. 2024年8月29日閲覧。
- ^ “歴史紀行 地域版 72 函館発祥の地〜宇須岸館跡 北海道函館市 - 日本歴史紀行”. goo blog. 2024年8月29日閲覧。
- ^ a b c 函館市元町公園に残る案内板、2024年8月15日
- ^ josekimeguri. “宇須岸河野館跡”. なんとなく城跡巡り2. 2024年8月29日閲覧。
- ^ a b c “宇須岸館”. kojousi.sakura.ne.jp. 2024年8月29日閲覧。
- ^ “宇須岸館訪城記”. kakei-joukaku.la.coocan.jp. 2024年8月29日閲覧。