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安倍瑞屯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
安倍瑞屯
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 不明
死没 宝永5年(1708年)6月25日
別名 吉十郎[1](通称)、長徳院[1]
戒名 了雲[1]
官位 法眼
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川綱吉
氏族 芝山家→安倍氏
父母 父:芝山宣豊、養父:安倍順貞
兄弟 芝山定豊阿部房豊瑞屯
望月甫庵元珍
瑞運正直
養子:設楽貞政室など
特記
事項
この家の名字については「安部」「安倍」「阿倍」の表記ゆれがある(安倍順貞を参照)
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安倍 瑞屯(あべ ずいじゅん[1])は、江戸時代前期から中期にかけての医師安倍順貞の跡を継ぎ、幕府医官・安部長徳院家(600石)2代となる。僧位は法眼。

生涯

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権大納言芝山宣豊の子[要出典]。旗本・医師安倍順貞の養子[注釈 1]

延宝4年(1676年)に順貞が没したため、その遺跡を継ぎ、侍医となる[1]。延宝8年(1680年)11月25日、将軍継嗣となった徳川綱吉の長男・徳川徳松に附けられ、西の丸に勤務[1]天和3年(1683年)7月5日、徳松が死去したために本丸勤務に戻る[1]。同年12月25日、法眼に叙位[1]

元禄元年(1688年)5月28日、病のために勤仕を怠っているとして奥勤めを免じられ[1]、6月23日に小普請入り[1]。出仕をはばかることが命じられ、元禄4年(1691年)4月24日に赦されている[1]

元禄14年(1701年)12月12日に致仕[1]。宝永5年(1708年)6月25日死去[1]

系譜

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以下は『寛政重修諸家譜』による[1]。『寛政重修諸家譜』では姓は「阿倍」表記である[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『寛永諸家系図伝』では特に注記なく「吉十郎」が順貞の子として示されている[2]。『寛政重修諸家譜』では養子関係は記されていない[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『寛政重修諸家譜』巻第六百四十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.399
  2. ^ 『寛永諸家系図伝 第15巻』(八木書店、1994年)、p.211。

参考文献

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