安威了佐
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 五郎左衛門[1]五左衛門尉[2] |
霊名 | シモン[2] |
官位 | 摂津守 |
主君 | 豊臣秀吉[3][2]豊臣秀頼[3][4] |
氏族 | 安威氏 |
父母 | 安威弥四郎 |
子 | 孫作、八左衛門 |
安威 了佐(あい りょうさ)は、豊臣秀吉の右筆[3][2][5]、奏者[3][2][5]。摂津守[1]、五郎左衛門[1]。実名は重胤[3][2][5]、重純[6]。洗礼名シモン(『耶蘇会年報』)[3][2]。摂津国安威城主。小西行長らと共に、宣教師以下のキリシタン勢力を豊臣秀吉に結びつける役割を果たしており[7]、伴天連追放以後も、キリシタンサイドの役割を担い続けていたことが明らかとなっている[8]。
経歴
[編集]細川高国に属した安威弥四郎の子という説があるが詳細は不明[9]。
天正11年(1583年)9月以前にキリスト教に入信する[10]。
天正13年(1585年)頃の摂津豊島郡豊臣直領の代官。勝尾寺、箕面寺を管理した[1]。中川秀政が播磨三木へ移封となった後、了佐が茨木領に入ったとされる[11]。
天正14年(1586年)イエズス会準管区長コエリョの大坂城訪問時に接待役を務め、大谷吉継と共にコエリョへ果物と干柿を持参している[12]。
天正15年(1587年)博多での伴天連追放令を、最初にコエリョに伝達したのは、了佐と小西行長の一家臣であった[13][5]。
天正18年(1590年)、小田原陣中で、制札の調整に専念している[3]。
秀吉死後は豊臣秀頼に仕え[3][1]、慶長16年禁裏普請の時には、大坂方で参加をしている[1]。
参考文献
[編集]- 松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』(風間書店、1967年)
- 高柳光壽・松平年一『戦国人名事典 増訂版』(吉川弘文館、1973年)
- 桑田忠親『太閤家臣団』(新人物往来社、1971年)
- 桑田忠親『豊臣秀吉研究』(角川書店、1975年)
- 中村質『近世長崎貿易史の研究』(吉川弘文館、1988年)
- 五野井隆史『日本キリシタン史の研究』(吉川弘文館、2002年)
- 中村博司「豊臣秀吉と茨木城」(中村博司編『よみがえる茨木城』清文堂出版、2007年)
- 金子拓「安威了佐(重純)」(五野井隆史監修『キリシタン大名―布教・政策・信仰の実相―』宮帯出版社、2017年)
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g 高柳 1973, p. 1.
- ^ a b c d e f g 桑田 1975, p. 445.
- ^ a b c d e f g h 桑田 1971, p. 130.
- ^ 桑田 1975, p. 447.
- ^ a b c d 中村 1988, p. 17.
- ^ 金子 2017, p. 487.
- ^ 中村 1988, p. 55.
- ^ 中村 1988, p. 56.
- ^ 金子 2017, p. 486.
- ^ 金子 2017, p. 488.
- ^ 中村博司「豊臣秀吉と茨木城」(中村博司編『よみがえる茨木城』清文堂出版、2007年)
- ^ 五野井隆史『日本キリシタン史の研究』吉川弘文館、2002年、185頁。
- ^ 松田毅一・川崎桃太訳『フロイス日本史1』(中央公論社、1977年)321頁