安守忠
安 守忠(あん しゅちゅう、932年 - 1000年)は、五代後晋から北宋にかけての武人。字は信臣。本貫は并州晋陽県。
経歴
[編集]安審琦の子として生まれた。後晋の天福8年(943年)、父が山南東道に出向すると、守忠はその下で牙内指揮使となり、襄州刺史を兼ねた。後周の顕徳4年(957年)春、鞍轡庫使に転じた。南唐が後周に屈服すると、使者としておもむいた。しばらくして、衛州刺史となった。
宋が建てられると、入朝して左衛将軍となった。建隆4年(963年)、荊南が平定されると、永州刺史に任じられた。乾徳年間、河陰に駐屯した。後蜀が平定されると、興元府知府に任じられ、南鄭の治安の安定をはかった。乾徳4年(966年)、漢州刺史に転じた。開宝元年(968年)、濮州刺史に転じた。開宝5年(972年)、黄河が濮陽で決壊したため、守忠は潁州団練使の曹翰を補佐して、黄河の堤防を修築した。遼州知州となった。遼州の民衆に北漢と呼応しようとする動きがあったため、守忠は一網打尽にして斬り捨てた。開宝9年(976年)、北漢に対する征戦に参加し、孫晏宣とともに遼州から進軍し、馬継恩と合流して40あまりの砦を落とした。さらなる進軍を諸将と議論したが、趙匡胤が死去したため、軍を返した。
太平興国元年(976年)、霊州知州となり、7年のあいだ在任した。雍熙2年(985年)、易州知州に転じた。さらに夏州知州に異動した。西辺防衛の功績により濮州団練使に任じられた。端拱年間、滄州知州となった。瀛州知州に転じ、高陽関駐泊部署を兼ねた。瀛州防禦使となった。淳化2年(991年)、雄州知州に転じた。部下と宴会を開いていたとき、軍の一部に反乱の動きがあり、武装した兵士が侵入した。守忠は笑っておもむろに客たちを見回し、「こいつらは酒に狂ってしまったのだ。捕らえるべきだな」と言って、落ち着いて対処したので、人々は感服した。淳化3年(992年)、耀州観察使の任を加えられ、雄州通判を兼ねた。しばらくして召還されると、辺境の情勢について上奏した。淳化5年(994年)、再び滄州知州となった。至道元年(995年)、また雄州知州となった。至道3年(997年)、三たび滄州知州となった。感徳軍節度観察留後に任じられて、宋州に出向し、制置営田使を兼ねた。咸平3年(1000年)、突然の病のため死去した。享年は69。太尉の位を追贈された。
子女
[編集]- 安継昌
- 女(王世及の妻)
伝記資料
[編集]- 『宋史』巻275 列伝第34