安田益太郎
安田 益太郎(やすだ ますたろう、1857年5月5日(安政4年4月12日[1])- 1916年(大正5年)8月19日[1][2])は、明治期の地主、酒造業、農業経営者、政治家。衆議院議員、京都府紀伊郡吉祥院村長。
経歴
[編集]山城国紀伊郡吉祥院村[1](京都府[2]紀伊郡吉祥院村[3]字吉祥院[1]、京都市下京区を経て現:京都市南区)で、地主・安田源右衛門の長男として生まれる[1]。伏見の儒者・奥野精一の家塾に入り漢学を修めた[1]。
安田家の家産が減じていたので1873年(明治6年)ころから酒造業を経営し銘柄「鳳寿」の名で知られた[1][2][3]。また、新田の開発、桑園の新設、茶業の振興に尽力[1]。紀伊郡農会幹事長となり、京都府農会の設立にも尽くした[1]。
自由民権運動に加わり[1]、1887年(明治20年)三大事件建白運動に参加し、同年11月、府下の有志と連名で元老院に建白書を提出した[1]。自由党に入党し、同党京都支部の幹部となる[1]。1887年10月、補欠選挙で京都府会議員に選出され1889年(明治22年)7月まで在任[1]。同年5月、町村制施行による吉祥院村の成立に伴い初代村長に就任[1]。1894年(明治27年)3月、第3回衆議院議員総選挙(京都府第3区、自由党)で初当選し[1][4]、同年9月の第4回総選挙(京都府第3区、1894年9月、立憲改進党)でも再選され[1][5]、衆議院議員に連続2期在任した[2][3]。
その後、立憲政友会に所属し、政友倶楽部、中正会に属した[1]。吉祥院村(1期)、紀伊郡会議員(2期)を務め[1]、第16師団の誘致などに尽くした[1]。1912年(明治45年)春、洛西電気軌道会社の発起人となり[1]、同年9月、田中祐四郎、川崎安之助らと桂川採砂会社を設立し専務取締役に就任した[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 京都府議会事務局編『京都府議会歴代議員録』京都府議会、1961年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。