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安芸 弘恒(1557?~1582?年、官位・通称:飛騨守・彦左衛門・十太夫)は、安芸国虎の長男。名は重宗とも。幼名・千寿丸。
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1569年に父が長宗我部元親との八流の戦いで死亡。阿波に逃れて三好家の家臣・矢野備後の娘を妻とし彌の矢野又六と名乗ったとも、赤沢信濃守の婿もしくは家臣になったともいう。中富川の戦いで戦死。
異説として、戦後、大友義鎮を頼って豊後に逃れたという説と、阿波で帰農し1637年5月21日に死亡した説がある。