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安達晟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

安達 晟(あだち あきら、1939年5月3日 - 2020年7月25日[要出典])は、北海道余市町出身の元ノルディックスキースキージャンプ)選手、スキー指導者、スキージャンプ審判員。

経歴・人物

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北海道余市町大川町出身。北海道余市高等学校ではスキー部に所属。在学中、ジャンプ競技では、2年生時に全道スキー大会純ジャンプ2位、全国高等学校スキー大会2位、3年生時に全国高等学校スキー大会2位の成績を残す。

1958年(昭和33年)、札幌鉄道管理局国鉄北海道支社、現在の北海道旅客鉄道鉄道事業本部に相当)に入社。札幌鉄道管理局スキー部に入部した。当時の札鉄スキー部は、純ジャンプに秋葉信夫、大内誠一、 距離競技では工藤誠二、谷口明見(ノルディック複合、オリンピック3回出場)らの有力選手を擁していた。その中で安達は1961年のHBC杯を制覇するなど好成績を残し、1964年インスブルックオリンピックの有力候補とみなされた。1964年1月、大倉山ジャンプ競技場で実施されたオリンピック代表選考会は6日連続の競技会、記録会だったが、1日目から好調で、2位、3位、5位、4位と安定したジャンプを見せた。吉沢広司、佐藤耕一、菊池定夫、笠谷昌生らを脅かす上位入賞で、最終日前夜時点で選考委員から派遣選手内定を言い渡されていた。しかし最終日、1本目93メートルとし迎えた2本目サッツのタイミングが遅れ大きく転倒し全治1週間の脳震盪、目覚めた時は同日夜半10時過ぎ病院のベットの上であった。代表選手は次の日から猪苗代町での合宿、5日後にはインスブルック出発といった日程であったため、ドクターストップにより代表から外れる[1]

1965年(昭和40年)、ソビエト連邦サハリン州スキー連盟の招きにより日本スキー選手団の一員としてユジノサハリンスク(旧・豊原市)へ招待され、スキー親善大会に参加した。樺太が日本の施政下にあった太平洋戦争前、北海道とのスキー交流は盛んにおこなわれたが、ソビエト連邦施政下のサハリン州となった戦後に日本人スキー選手が同州に立ち入るのは初めてであった[2][要文献特定詳細情報]

1969年(昭和44年)に現役を引退。1972年札幌オリンピックに向けて、大倉山ジャンプ競技場の90メートル級(現・ラージヒル)および宮の森ジャンプ競技場の70メートル級(現・ノーマルヒル)ジャンプ台を、それぞれ1970年と1968年に国際スキー連盟(FIS)基準に基づいた設計で新設することになった際に、安達はジャンプ台のテスト処女飛行者を務めた[3][要文献特定詳細情報]

引退後はコーチ、国鉄北海道スキー部監督、札幌オリンピック競技役員、札幌スキー連盟/北海道スキー連盟理事(1976年 - 1998年)、全国鉄/JRスキー連盟理事/専務理事長/顧問を歴任した。また、1981年にFISのスキージャンプ飛型審判員ライセンス(国際スキー連盟が認めるオリンピックを含む国際スキージャンプ競技会飛型審判員)を取得。当時このライセンスを保持していた日本人はほかに8人だけであった[要出典]

国鉄分割民営化後は、北海道旅客鉄道札幌駅助役を経て、1997年(平成9年)に退職。

2020年(令和2年)、上行結腸癌のため、札幌市内の病院で死去(満81歳没)[要出典]

主な優勝歴

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脚注

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  1. ^ "インサイド飛躍" 「幻の五輪」読売新聞1981年1月16日
  2. ^ 1965年3月9日、24日、26日 毎日新聞、北海道新聞、北海タイムス他
  3. ^ 毎日新聞、北海タイムス(1970年12月25日)