安部雄能麻呂
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時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天長3年8月2日(826年9月7日) |
官位 | 従四位上・左馬頭 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇 |
氏族 | 安倍氏 |
父母 | 父:安倍人成 |
安部 雄能麻呂(あべ の おのまろ)は、平安時代初期の貴族。従五位上・阿倍億宇麻呂の孫。因幡守・安倍人成の子[1]。官位は従四位上・左馬頭。
経歴
[編集]大同5年(810年)薬子の変の最中に従五位下・右衛士佐に叙任。のち、右衛門佐・左馬頭と武官を務める一方で、豊後介・越中介・上野守と地方官を兼ねる。またこの間、弘仁6年(815年)以前に従五位上、弘仁7年(816年)正五位下、弘仁8年(817年)従四位下、弘仁13年(822年)従四位上と嵯峨朝において順調な昇進を果たした。
淳和朝の天長3年(826年)8月2日卒去。最終位階は従四位上[1]。
人物
[編集]鷹の調教に練達していたが、他に才学はなかった。高位高官に昇ったのは非常に幸運なことと評された[1]。
官歴
[編集]『日本後紀』による。
- 時期不詳:正六位上
- 大同5年(810年) 9月10日:従五位下、右衛士佐
- 時期不詳:右衛門佐
- 弘仁4年(813年) 正月10日:兼豊後介
- 時期不詳:従五位上
- 弘仁6年(815年) 正月10日:左馬頭兼越中介。正月14日:上野守
- 弘仁7年(816年) 正月7日:正五位下
- 弘仁8年(817年) 4月1日:従四位下
- 弘仁13年(822年) 10月1日:従四位上
- 天長3年(826年) 8月2日:卒去(従四位上)