宗正
宗正(そうせい)は、中国の秦から清までの諸王朝の多くに置かれた官職である。皇族に関する事務を扱った。
秦
[編集]古くは秦の時代にあった。『漢書』「百官公卿表」に「秦官」とある[1]。また、発掘された秦代の封泥に「宗正」と書かれたものが見つかっている[2]。
前漢
[編集]前漢では高祖7年(紀元前200年)に置かれた[3]。前年に、劉賈と劉肥を初の同姓(皇族)王として封じたため[4]、遠い地の親族を把握する必要が生じたのであろう[5]。
職掌は「親属を掌る」こと、つまり皇族に関することである[1]。具体的には「属籍」という皇族の名簿を管理していた[6]。宗正は皇族の劉氏から選ばれるのが原則であった[5]。例外的に他の官職を持つ者が兼任するときに、劉氏以外の人が宗正となることがあった[7]。
補佐として宗正丞を1人置き、属官には以下のものがあった[1]。
- 都司空令 - 都司空丞
- 内官長 - 内官丞
- 公主家令
- 門尉
このうち内官ははじめ少府に属し、ついで主爵都尉に属し、後に宗正に属した[1]。都司空、内官の職務については諸説ありはっきりしない[8]。公主家令は皇帝の娘である公主の家をとりしきった官で、公主ごとについた。門尉は公主の護衛であろう。
新
[編集]新の王莽の時代には、宗伯の管轄部門は秩宗(前漢の太常)に吸収された[1]。
後漢
[編集]後漢では宗正に戻された。定員1人で、秩禄は中二千石。王国の嫡庶の序列を管轄し、諸宗室の親等の遠近、郡国の存続年を宗室の名籍に計上した。また、皇族の成年が法を犯したときは、まず宗正が諮問してから処罰した。丞を1人置き、秩禄は比千石。属官である公主家令は、各家に1人置かれ、秩禄は六百石。それぞれに丞1人を置き、秩禄は三百石。
その後
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その後の王朝では、宗正または宗正卿の名で置かれたり、あるいは省いて置かれなかったりした。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f 『漢書』巻19上、百官公卿表第7上、宗正。『『漢書』百官公卿表訳注』83頁。
- ^ 『『漢書』百官公卿表訳注』83頁注1。
- ^ 『漢書』巻1下、高祖本紀第1、高祖7年。ちくま学芸文庫『漢書』1の67 - 68頁。『史記』の高祖7年条にはない。
- ^ 『史記』高祖本紀、高祖6年。ちくま学芸文庫『史記』1の270 - 271頁。
- ^ a b 楯身智志「前漢の宗正」、10頁。
- ^ 楯身智志「前漢の宗正」、4 - 5頁。
- ^ 『史記』巻60、三王世家第30。ちくま学芸文庫『史記』4の282頁。
- ^ 『『漢書』百官公卿表訳注』84 - 85頁注5・注6。
- ^ 『新唐書』巻48、志第38、百官3、宗正寺。
- ^ 『宋史』漢164、志第117、職官4、 宗正寺。