宮原忠英
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宮原 忠英(みやばら ただひで、1818年(文政元年3月) - 1885年(明治18年)7月)は、幕末の旗本、明治期の官吏。大宮県知事。仮名は中務。
略歴
[編集]御徒組頭の河野彦左衛門の子として生まれ、天璋院広敷添番宮崎勝次郎の養子となり宮崎達次郎と名乗った。1860年に家督を継いで天璋院広敷添番となり、まもなく久美浜代官に転じそこで明治維新をむかえる。新政府に恭順を示した後、奈良府判事と大宮県知事をそれぞれ短期間務めるが、その後の足取りは不明である。[1]
『香取郡誌』によれば吉田村(現・匝瑳市吉田)の生まれで、幼名登一郎。上野輪王寺宮に右筆として仕えたのち旗本に転じたとある。[2]
履歴
[編集]- 万延元年10月(1860年) - 天璋院広敷添番
- 文久3年4月4日(1863年5月21日) - 静寛院宮用達・天璋院用達
- 元治元年6月4日(1864年7月7日) - 丹後久美浜代官
- 慶応4年=明治元年
- 明治2年
参考文献
[編集]- ^ 岸清俊 (2003). “職員履歴と達書にみる大宮県の成立とその展開”. 文書館紀要 16: 38-64 .
- ^ 香取郡誌 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー