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宮原景晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宮原 景晴(みやはら かげはる、? - 寛永元年(1624年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての薩摩国島津氏の家臣。官位は左近将監、入道名は秋扇。兄は宮原景次。子は宮原景衡。後年の仁礼氏

兄の景次は宮原景種の婿養子となっていたが、永禄11年(1568年)の菱刈氏との合戦で討ち死にしたため、弟の景晴が婿養子となった(景種と景次、何れの婿養子かは不詳)。天正6年(1578年)の新納石城攻めで軍功を為した。串木野(現・鹿児島県いちき串木野市)の地頭となって以降は、天正9年(1581年)の水俣城攻めや天正14年(1586年)の岩屋城の戦いに参加した。

その後は島津義弘家老代を務め、紙屋(現・宮崎県小林市野尻町)や阿久根(現・鹿児島県阿久根市)の地頭も務める。慶長4年(1599年)に心岳寺の普請奉行を仰せ付かり、出水(現・鹿児島県出水市)の高尾野城の普請役となった頃に出水の地頭にも任じられた。

元和4年(1618年)に嫡子の景衡が琉球検地の帰りに船が沈み水死すると、元和6年(1620年)に景衡の婿養子として仁礼景頼三原重貞の子。元の名を別府小吉とする仁礼頼景とは別人)を迎えたのを機に姓を仁礼氏に改める。

寛永元年(1624年)に、出水の高尾野で病死した。

参考文献

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  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)