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宮和田 光胤(みやわだ みつたね、文化13年(1816年) - 明治21年(1888年)3月8日)は、幕末から明治時代の国学者。通称は又右衛門[1][2]。
下総国相馬郡宮和田村(現・茨城県取手市)に生まれる[2]。はじめ千葉周作の門に入り剣術を能くし、平田銕胤に国学を学んだ[1]。維新前は江戸や堺にて尊攘運動家と交流し、維新後は刑法官となり、のち東京深川の富岡八幡宮の神職となった[1]。長男の勇太郎は足利三代木像梟首事件に、次男の進は大村益次郎の暗殺に関与した[1]。