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宮城ナナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮城ナナ
Nana Miyagi
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ワシントン州シアトル
居住地 沖縄県
生年月日 (1971-04-10) 1971年4月10日(53歳)
身長 163cm
体重 53kg
利き手
バックハンド 両手打ち
ツアー経歴
デビュー年 1988年
引退年 2006年
ツアー通算 10勝
シングルス 0勝
ダブルス 10勝
生涯通算成績 725勝553敗
シングルス 273勝265敗
ダブルス 452勝288敗
生涯獲得賞金 $1,234,067
4大大会最高成績・シングルス
全豪 2回戦(1990・91・96・98)
全仏 2回戦(1990)
全英 2回戦(1994・98)
全米 2回戦(1997)
4大大会最高成績・ダブルス
全豪 ベスト8(1997・98・2000)
全仏 3回戦(1997)
全英 3回戦(1994・97・98・2003)
全米 ベスト4(1993)
キャリア自己最高ランキング
シングルス 51位(1995年1月17日)
ダブルス 12位(1997年5月26日)
獲得メダル
女子 テニス
アジア大会
1990 北京 団体
1990 北京 ダブルス
1994 広島 団体
1994 広島 混合
1994 広島 ダブルス
1998 バンコク 混合
1998 バンコク 団体
1998 バンコク ダブルス

宮城 ナナ(みやぎ なな、1971年4月10日 - )は、日本の女子プロテニス選手。アメリカワシントン州シアトルに生まれる。父親はカナダ系アメリカ人で、沖縄の軍事基地に勤務している。長年にわたり、ダブルスの名手として活躍してきた。WTAツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで10勝を挙げる。自己最高ランキングはシングルス51位、ダブルス12位。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークとも両手打ち。チームスカンジナビア所属。結婚後は選手登録名を「ナナ・スミス」(Nana Smith)と変更した。

来歴

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宮城ナナは父親の仕事の関係で、13歳の時に沖縄へ引っ越した。1988年3月にプロ入りし、すぐにダブルスの名手として才能を発揮し始める。1990年から4大大会の女子ダブルスに挑戦を開始。同年8月末にアメリカニューヨークで開かれた「OTBオープン」で、ツアー大会の女子ダブルスに初優勝を飾る。それ以来、いろいろなパートナーとペアを組んで、息の長い活躍を続けてきた。ダブルスに強いことから、長年にわたり女子テニス国別対抗戦・フェドカップの日本代表選手として不可欠な戦力でもあり、1989年から2000年までその位置にあった。

1992年インドネシアヤユク・バスキと組むようになり、宮城のダブルスは大きく開花し始めた。1993年全豪オープンで、宮城は初めて4大大会女子ダブルスの初戦を突破し、3回戦まで勝ち進む。同年の全米オープンで、バスキとのペアで初めて女子ダブルス準決勝に進出した。そこではアマンダ・クッツァー南アフリカ)&イネス・ゴロチャテギアルゼンチン)組に敗れている。1993年に宮城が組んだパートナーは、大半がバスキか平木理化であったが、バスキと組んだ試合の方がはるかに好成績が多かった。

1995年半ばにバスキとのペアを解消。1997年から1998年にかけては、雉子牟田直子とのペアで好成績を出し、このコンビは女子ツアーでダブルス3勝を記録した。宮城のダブルス10勝の中でも、雉子牟田との3勝は際立っている。1997年1月、2人はオーストラリアの「ゴールド・コースト」と「ホバート」の大会でダブルス2週連続優勝を飾り、全豪オープンでもベスト8に進出した。2月下旬のアメリカ・オクラホマシティの大会では、平木理化とのコンビで初優勝を飾っている。宮城と雉子牟田のコンビは、この年に全仏オープンウィンブルドン全米オープンの3大会連続で3回戦(ベスト16)に勝ち残り、1998年には全豪オープンの女子ダブルスで2年連続ベスト8に進出した。この時は準々決勝でリンゼイ・ダベンポートナターシャ・ズベレワの組に敗れたが、その前の3回戦でビーナスセリーナのウィリアムズ姉妹組に勝ったことがある。

しかし、雉子牟田が故障のため1998年限りで現役引退を強いられ、宮城はまた様々なパートナーとペアを組んだ。2000年シドニー五輪では女子ダブルスで杉山愛と組み、タイ代表との2回戦で敗退する。2002年は「ジャパン・オープン」の女子ダブルスで浅越しのぶと組んだ優勝がある。2006年3月のアメリカ・カリフォルニア州レッディング大会を最後に、彼女の試合出場記録は途切れている。

宮城はダブルスでの活躍が知られているが、シングルスでは1996年インドネシアスラバヤ大会で準優勝があり、ベスト4進出は1992年台北大会、1994年ニチレイ・レディース1995年ジャパン・オープンの3度あった。1989年カナディアン・オープンではベスト8に入り、優勝したマルチナ・ナブラチロワと 2-6, 6-3, 2-6 のファイナルセットを戦ったことがある。その後肩の故障で世界ランキングを落としたが、1994年のニチレイ・レディースではリンゼイ・ダベンポート(当時世界8位)、ザビーネ・ハックドイツ、当時世界10位台)を破って勝ち進み、準決勝で当年度の全米オープン優勝者アランチャ・サンチェス・ビカリオに 2-6, 6-2, 4-6 で惜敗した。(試合後に、サンチェスが当時は珍しかったドライブ・ボレーの打ち方を聞きにきたという。)1996年リプトン国際選手権では、2回戦で当時15歳のマルチナ・ヒンギスを破ったこともある。

宮城はアメリカで都市対抗のチームテニスにも参加し、1998年には“World TeamTennis Rookie of the Year”(ワールド・チームテニス・ルーキー・オブ・ザ・イヤー)を受賞している。

外部リンク

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