コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

宮崎要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
宮崎 要
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 佐賀県
生年月日 1916年4月27日
没年月日 (1965-06-17) 1965年6月17日(49歳没)
身長
体重
165 cm
57 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1950年
初出場 1950年
最終出場 1954年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
  • 西鉄クリッパース
    西鉄ライオンズ (1950, 1955 - 1957)

宮崎 要(みやざき かなめ、1916年4月27日 - 1965年6月17日)は、佐賀県出身の元プロ野球選手内野手)、監督

東芝に所属した元社会人野球選手の宮崎剛は息子。レースクイーンの藤井マリーは孫(娘の子)。

来歴・人物

[編集]

佐賀商業学校から慶應義塾大学に進む。大学時代は名二塁手として、飯島滋弥大館盈六宇野光雄とともに100万ドル内野陣を形成。東京六大学リーグ通算73試合出場、243打数42安打、打率.173、0本塁打。

大学卒業後、社会人野球藤倉電線西日本鉄道を経て、1950年西鉄クリッパースに入団し、同時に西鉄の初代監督になる。同年は51勝67敗(勝率.432)で5位に終わるが、プレイングマネージャーとして二番・二塁手も務めて、打率.294を記録しリーグ打撃11位に入った。

しかし、チームは同年オフに同じ福岡市本拠地とする西日本パイレーツを吸収合併し『西鉄ライオンズ』となった。当初西鉄は三原脩を監督に据えて宮崎を選手専任にしようとしたものの、旧クリッパース側の選手からの反発もあり、三原を総監督に据えて、宮崎は選手兼任でライオンズとしても初代監督となった。実際のチームの指揮は総監督の三原が執ったが、宮崎は1952年まで監督を名乗った[1]。なお、後身の埼玉西武ライオンズの公式サイトの年表では、宮崎は1950年の、三原は1951年からのライオンズ監督として扱われている[2]。宮崎は1951年まで二塁手のレギュラーを務めるが、1952年から1953年にかけては今久留主淳と併用され、1954年に高卒新人だった仰木彬にレギュラーを譲って僅か13試合の出場に留まり、同年現役引退した。

現役引退後も西鉄ライオンズに残り、1955年から1957年にかけてコーチ助監督を務めた。1965年6月17日死去。満49歳没。

詳細情報

[編集]

年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1950 西鉄 112 468 418 65 123 20 1 4 157 33 16 13 12 - 37 - 1 27 4 .294 .353 .376 .729
1951 102 391 344 36 77 11 2 2 98 26 16 14 10 - 35 - 2 24 2 .224 .299 .285 .584
1952 62 93 84 13 17 2 0 1 22 3 1 0 3 - 6 - 0 10 1 .202 .256 .262 .517
1953 86 208 179 18 35 7 2 0 46 8 9 5 13 - 13 - 3 11 3 .196 .262 .257 .519
1954 13 5 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 - 0 1 0 .000 .250 .000 .250
通算:5年 375 1165 1028 132 252 40 5 7 323 70 42 32 39 0 92 - 6 73 10 .245 .311 .314 .625

通算監督成績

[編集]
  • 120試合 51勝67敗2引分 勝率.432 順位:5位

背番号

[編集]
  • 30 (1950年 - 1953年)
  • 50 (1954年 - 1957年)

脚注

[編集]
  1. ^ 文藝春秋社刊 立石泰則著『三原脩と西鉄ライオンズ』132-148ページ
  2. ^ 1950~53年 “野武士”軍団養成埼玉西武ライオンズ公式サイト

関連項目

[編集]