家原音那
家原 音那(いえはら の おとな、生没年不詳)は、古代日本の飛鳥時代 - 奈良時代の女性。左大臣・正二位の多治比嶋(たじひ の しま)の妻。
経歴
[編集]「音那」とは「女」という意味であることを、青木和夫は説明している。本名は不明である。
夫の多治比嶋は宣化天皇の血をひく皇族出身の貴族で、筑紫大宰の時に「大きなる鐘」を貢上し[1]、3本足の雀を朝廷に献上した、という[2]。684年の八色の姓では真人姓を与えられている[3]。『続紀』巻第五によれば、音那は夫がなくなってから12年目の和銅5年(712年)9月の詔により、
夫存したる日には、国を為(をさ)むる道を相勧め、夫亡(みう)せたる後は固く墳(つか)を同じくせむ意(こころ)を守る。朕(われ)、彼(そ)の貞節を思ひて、感歎(かむたん)すること深し
という糟糠の妻としての内助の功をたたえられ、同じ境遇の紀音那とともに食封として邑(さと)50戸が与えられた。さらに、家原音那の場合は、無姓であったため、「連」姓も与えられた。
また、この年は豊作でもあったため、大赦が行われた、ともある[4]。
『続紀』巻第六によると、翌713年(和銅6年6月)には、家原河内・大直(おおあたい)・首名(おびとな)の3人に「連」姓が与えられている[5]。
参考
[編集]『日本三代実録』貞観14年8月13日条(872年)に記された家原氏主らの言葉によると、
左京(さきゃう)の人主税頭(ちからのかみ)従五位上(しょうごゐのじゃう)兼行算博士(ぎゃうさんのはかせ)家原宿禰氏主(いへはら の すくね うぢぬし)(中略)等に姓(しゃう)朝臣(あそん)を賜ひき。氏主の父は宿禰富依(とみより)なり。天長三年(=826年)、姓家原連を賜りし日、富依(とみより)解(げ)を修(をさ)めて称(まを)さく、「富依が先(せん)は後漢(ごかん)の光武(くゎうぶ)皇帝(くゎうてい)より出でしなり」と。
氏主(うぢぬし)今言(まを)さく、「先は宣化天皇(せんくゎてんわう)の第二の皇子より出でしなり。延暦18年(=799年)、本系を進(たてまつ)りし日、後漢の光武皇帝を祖(おや)と為(な)ししは誤(あやまり)なり」と。
父子の称す所、始称(ししょう)の出づる所、先後(せんご)同じからず、未だ誰(いづれ)か是なるを知らず。但し、姓氏録(しゃうじろく)の記(しる)す所、実正(まこと)を得(う)と謂(い)ふべし[6]
とあり、要約すると、家原宿禰氏主たちが朝臣姓を授与賜与されて、「家原朝臣」と名乗ることになったが、その際に、氏主の父、富依が天長3年に「連」を賜姓された時、誤って後漢光武帝の子孫であると解文に記してしまった、のを訂正したという。実際は宣化天皇の後裔であるらしいのだが、親子の名乗るところが食い違っており、どちらが正しいか分からない、というのである。この家原音那の夫、多治比嶋の系譜と混同している可能性もある。
家原連氏は、斉衡2年8月(855年)に宿禰姓になり、先述の貞観14年8月に朝臣になっている。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『コンサイス日本人名辞典 改訂新版』p415、p765(三省堂、1993年)
- 『続日本紀』1 新日本古典文学大系12 岩波書店、1989年
- 『続日本紀』全現代語訳(上)、講談社学術文庫、宇治谷孟:訳、1992年
- 『日本の歴史3 奈良の都』、青木和夫:著、中央公論社、1965年
- 『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年
- 『読み下し 日本三代実録』〈上巻〉清和天皇、訳:武田祐吉・佐藤謙三 戎光祥出版、2009年