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満蔵寺 (さいたま市岩槻区)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寅子石から転送)
満蔵寺
所在地 埼玉県さいたま市岩槻区馬込1209
位置 北緯35度58分10秒 東経139度39分46秒 / 北緯35.96944度 東経139.66278度 / 35.96944; 139.66278座標: 北緯35度58分10秒 東経139度39分46秒 / 北緯35.96944度 東経139.66278度 / 35.96944; 139.66278
山号 瑠璃光山[1]
院号 東光院[1]
宗派 天台宗[1]
創建年 嘉祥3年(850年)?
開山 慈覚大師円仁
中興 蓮海[1]
文化財 板石塔婆(埼玉県指定有形文化財)、天文十六年銘地蔵図像板碑(以上、さいたま市指定有形文化財)
法人番号 2030005002796 ウィキデータを編集
満蔵寺の位置(埼玉県内)
満蔵寺
満蔵寺
満蔵寺 (埼玉県)
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山門

満蔵寺(まんぞうじ)は、埼玉県さいたま市岩槻区にある天台宗寺院

歴史

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850年嘉祥3年)、慈覚大師円仁によって開山されたと伝えられる[2][1]。また後述の板石塔婆(板碑)の年代から、それなりの古刹であることが推測される。

当寺本堂には、「天文十六年(1547年)」の銘文が入った板石塔婆が保存されている。地蔵菩薩が刻まれており、夫婦の逆修供養のために造立された[3][4]

寅子石

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寅子石

当寺から約1キロ南西蓮田市馬込に当寺の墓地がある。そこには埼玉県の文化財に指定されている高さ4メートルの「寅子石」と呼ばれる板碑がある。「南無阿彌陀佛」の六字名号が大書されており、1311年延慶4年)に唯願が師の真仏の恩に報いるべく造立したものである。真仏は親鸞の高弟「二十四輩」の一人で、真宗高田派の祖となる僧侶である[4]

毎年、三重県に住む高田派の門徒は、栃木県真岡市本寺専修寺に参詣した後、当寺を訪れてこの板碑に香華を手向けることになっている[4]

寅子伝説

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この板碑は造立者やその造立意図が明らかにもかかわらず、下記のように浄土真宗とは無関係の「寅子伝説」と呼ばれる悲話が地元で語り継がれている[4][5]

昔、この地域の長者の老夫婦との間に「寅子」という一人の娘(異伝では、実娘ではなく、承久の乱の後に消息を絶った三浦義直の娘を養育した)がいた。寅子は成長するにつれ、美少女として評判が立つようになり、彼女と結婚したいという求婚者が殺到した。やがて寅子をめぐって揉め事が起きるようになり、長者や寅子を大いに悩ませた。

ある日、長者はこれらの求婚者に対して酒宴に招いた。求婚者らは「遂に婿殿の発表か!」と喜んで出席した。宴席ではとともに肉のまでふるまわれた。

しかし宴もたけなわになっても、寅子は姿を見せなかった。求婚者の一人が長者に詰め寄ると、「実は、この膾は寅子の腿の肉にございます。皆様の思いに全て応えるには、わが身を均しく捧げるしかないと、自害したのでございます。」と長者は答えた。

これを聞いた求婚者らは、寅子を苦しめた己の浅ましさを深く悔い、彼女の菩提を弔うために合同で供養塔を建てることになった。これが「寅子石」である。

また求婚者の何人かは出家し、寅子石の周辺に満蔵寺(当寺)・慶福寺多聞院・源悟寺・正蔵院を建てて、寅子の菩提を弔ったという。

文化財

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  • 板石塔婆(埼玉県指定有形文化財 昭和40年3月16日指定)[6]
  • 天文十六年銘地蔵図像板碑(さいたま市指定有形文化財 平成17年3月2日指定)[3]

交通アクセス

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脚注

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  1. ^ a b c d e 新編武蔵風土記稿 馬込村.
  2. ^ 大村進 著『埼玉ふるさと散歩(岩槻市)』さきたま出版会、1992年、10p
  3. ^ a b 天文十六年銘地蔵図像板碑さいたま市
  4. ^ a b c d 大村進 著『埼玉ふるさと散歩(岩槻市)』さきたま出版会、1992年、144-145p
  5. ^ 慶福寺と「蓮田の伝説」慶福寺
  6. ^ 県指定等文化財埼玉県

参考文献

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  • 大村進 著『埼玉ふるさと散歩(岩槻市)』さきたま出版会、1992年
  • 「馬込村 満蔵寺」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ201埼玉郡ノ3、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764007/75 

関連項目

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