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寇遐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寇遐
『改訂 現代支那人名鑑』1928年
プロフィール
出生: 1884年光緒10年)
死去: 1953年9月6日
中華人民共和国陝西省西安市
出身地: 清の旗 陝西省同州府蒲城県
職業: 政治家
各種表記
繁体字 寇遐
簡体字 寇遐
拼音 Kòu Xiá
ラテン字 K'ou Hsia
和名表記: こう か
発音転記: コウ シア
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寇 遐(こう か)は、末、中華民国の政治家。北京政府で農商総長をつとめた。勝孚。号は玄疵

事跡

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1906年光緒32年)、西安師範学堂選科に入学する。在学中に中国同盟会に加入した。1909年宣統元年)に卒業後、同州中学堂監学となる。その傍らで、陝西省内の革命派の蜂起を支援する秘密活動に従事している。

中華民国成立直後は陝西省臨時議会副議長となり、さらに衆議院議員に選出されている。革命派として、反袁世凱の活動にも従事した。袁死後の第1次国会回復とともに再び衆議院議員に復帰した。

孫文護法運動を開始すると、これに応じて広州に赴き、国会非常会議議員、大元帥府参議などをつとめた。1922年民国11年)、第2次国会回復とともに再び北京で衆議院議員となった。しかし、翌年の曹錕賄選に反発して孫の下に戻った。

1924年(民国13年)の第2次奉直戦争の際には、北京政変(首都革命)の発動に参与している。1925年(民国14年)12月、許世英内閣で農商総長に任じられたが、翌年3月、賈徳耀内閣の途中で辞任する。以後は北京に寓居した。

1931年(民国20年)に帰郷し、陝西省政府委員、同省臨時参議会議員、国民政府行政院僑務委員会委員、同賑務委員会委員などをつとめた。金石文研究を好んだことから、1934年(民国23年)に西安金石書画学会を発足させて、その会長となる。また、秦腔(陝西省の地方劇・戯曲)にも造詣が深く、研究書を著している。

中華人民共和国成立後も故郷に留まっている。陝西省人民政府委員などをつとめた。

1953年9月6日、西安にて死去。享年70。

参考文献

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  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
 中華民国の旗 中華民国北京政府
先代
楊庶堪
農商総長
1925年12月 - 1926年3月
次代
楊文愷