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富士松加賀太夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

富士松 加賀太夫(ふじまつ かがたゆう)は、新内節の太夫の名跡。代々富士松派の家元を名乗る事が多い。

  • 初代富士松加賀太夫 - 後∶初代富士松魯中
  • 二代目富士松加賀太夫 - 不明
  • 三代目富士松加賀太夫 - 不明
  • 四代目富士松加賀太夫 - 不明
  • 五代目富士松加賀太夫(1855年 - 1892年12月10日)本名∶野中 富士松江戸浅草の生まれ、初代富士松魯中の三男で、六代目加賀太夫の弟。7歳で父が死去し、父の門弟で寄席で活躍していた富士松紫朝の門下になり「富士太夫」を名乗る。後に「歌賀太夫」と改名し、1880年に五代目加賀太夫を襲名。主な作曲には「高橋お伝」や「花井お梅」がある。美声だったが寄席では売れなかった。
  • 六代目富士松加賀太夫(1852年 - 1896年11月29日) - 本名∶野中 福太郎初代富士松魯中の長男。弟は五代目富士松加賀太夫。富士松島太夫から1893年に父の名である二代目魯中を襲名。弟の五代目没後六代目加賀太夫を襲名。

7代目

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(安政3年2月29日1856年4月4日) - 昭和5年(1930年10月4日)本名は小林文太郎。

江戸の生まれ、5代目加賀太夫の門下で津賀太夫、富士太夫を経て、1902年に7代目加賀太夫を襲名。

美声の持ち主で俗に「七代目節」と言われる明治末から大正時代の名人。現在に通じる新内の基礎はこの人物が築いた。

実の弟が8代目加賀太夫、甥が9代目加賀太夫。

8代目

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(安政6年2月29日1859年4月2日) - 昭和9年(1934年4月15日)本名は小林鎌吉。

江戸の生まれ、7代目加賀太夫の実の弟。鶴賀秀太夫の元で修行し鶴賀小秀太夫名乗り鶴賀直太夫と改名。1913年に4代目吾妻路宮古太夫1930年の7代目加賀太夫没後8代目加賀太夫を襲名。

最初は7代目加賀太夫の三味線を勤めた。実子が9代目加賀太夫。

9代目

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(明治22年(1889年3月30日 - 昭和46年(1971年11月12日)本名は小林豊太郎。

東京の生まれ、8代目加賀太夫の実子で富士松曽根太夫が1934年の8代目加賀太夫没後に9代目加賀太夫を襲名。