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富士能通

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

富士 能通(ふじ よしみち、元亀元年(1570年) - 承応元年9月22日1652年10月24日))は、戦国時代江戸時代富士山本宮浅間大社の公文職。

略歴

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『富士本宮雑記抜抄』[注釈 1]によると、能通は武田家家臣鷹野徳繁の子であり、富士信忠のもとに養子となり富士姓を名乗ったという。そしてこの時公文職に迎えることが承諾されたとある[1]。幼名は富士千代丸で、別名に宮次郎がある[2]。官位は宮内少輔。

天正4年(1576年)の契約状に富士千代丸の公文職相続に関する取り決めが記され[3]、また富士信通起請文には富士千代丸の公文職相続を約束する旨が記されている[4][注釈 2]。その後の天正6年(1578年)に富士千代丸は予定通り公文職に就任し、このとき宮次郎を名乗った[6]。享年81[7]。戒名は法明院殿覺山文圓居士。

脚注

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注釈

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  1. ^ 元治元年(1864年)に公文富士氏に伝わる記録を整理し作成された由緒書
  2. ^ この起請文は年未詳であるが、天正5年12月であるとする指摘がある[5]

出典

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  1. ^ 丸島和洋、「武田氏の領域支配と取次」『戦国大名武田氏の権力構造』74頁、思文閣出版、2011
  2. ^ 前田(1992) p.73
  3. ^ 『戦国遺文』今川氏編第5巻 2587号文書
  4. ^ 『戦国遺文』今川氏編第5巻 2601号文書
  5. ^ 前田(1992) p.77
  6. ^ 前田(1992) p.78
  7. ^ 前田(1992) p.74

参考文献

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  • 前田利久「戦国大名武田氏の富士大宮支配」『地方史静岡』第20号、1992年、58-87頁。 
  • 前田利久、「戦国大名武田氏の富士大宮攻略と富士氏の動向」『駒澤史学39巻』、1988
  • 浅間神社社務所、『浅間神社の歴史』〈富士の研究〉、古今書院、1929