富岡惟中
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富岡 惟中[1][2](とみおか これなか、1891年(明治24年)7月24日[3] - 没年不明)は、日本の工学博士[4][5][6]、技師。染料界の権威である[7]。
人物
[編集]東京府・富岡保の二男[3][5][8]。医学博士・富岡有象の弟[8]。1909年、東京府立第四中学校を卒業[9]。1912年、第一高等学校を卒業[10]。1915年、東京帝国大学工科大学応用化学科を卒業[2][5][8][11]。東京瓦斯技師に就任[5]。
1918年、臨時産業調査局技師兼農務局技師に転じ、1922年、欧米各国に留学を命ぜられる[5]。1925年、商工技師に任じ、東北帝国大学工学部、東京工業大学及び東京工業試験所等に勤務する[5]。
1930年、工学博士の学位を授与される[5][8]。染料製造奨励に関する事務に従事する[12]。1933年、官を辞し三菱鉱業に入り参事となる[5]。また日本化成工業技師長をつとめる[5]。学士会会員である[13]。
宗教は真宗[3][6]。趣味は音楽、旅行[3][6]、庭園[4][5]。住所は東京府荏原郡碑衾町大字碑文谷[1]、東京市外洗足田園都市西谷北[8]、東京市目黒区洗足町[3][4][5][6]。
家族・親族
[編集]- 富岡家
- 親戚
- 兄・富岡有象[2][8](医学博士、医師、富岡皮膚泌尿科医院長)[2] - 1889年生まれ[6]。富岡保の長男[6]。1913年、東大医学部を卒業[6]。1932年、開業[6]。住所は芝区新橋[6]。
脚注
[編集]- ^ a b 『日本紳士録 第31版』東京ト之部606頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月10日閲覧。
- ^ a b c d 『帝国大学出身名鑑』ト23 - 24頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月11日閲覧。
- ^ a b c d e 『大衆人事録 第12版』東京467頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月2日閲覧。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第14版 下』ト42頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第13版 下』ト45頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月10日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i 『大衆人事録 第14版 東京篇』674頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月25日閲覧。
- ^ 『婦人倶楽部 29(8)』。
- ^ a b c d e f 『人事興信録 第9版』ト40頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月10日閲覧。
- ^ 『東京府立第四中学校一覧』明治四十二年三月第十六回卒業生222頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月2日閲覧。
- ^ 『第一高等学校一覧 昭和6至7年 附録 卒業生氏名』明治四十五年155頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月2日閲覧。
- ^ 『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』学士及卒業生姓名 工学士 応用化学科217頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年9月10日閲覧。
- ^ 『日本紡織年鑑 昭和6年』927頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月2日閲覧。
- ^ 『会員氏名録 昭和18年用』295頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年5月2日閲覧。
参考文献
[編集]- 東京帝国大学編『東京帝国大学一覧 從大正7年 至大正8年』東京帝国大学、1913 - 1924年。
- 交詢社編『日本紳士録 第31版』交詢社、1927年。
- 日本紡織通信社編『日本紡織年鑑 昭和6年』日本紡織通信社、1930年。
- 『第一高等学校一覧 昭和6至7年 附録 卒業生氏名』第一高等学校、1931年。
- 人事興信所編『人事興信録 第9版』人事興信所、1931年。
- 校外調査会編『帝国大学出身名鑑』校外調査会、1932年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第12版』帝国秘密探偵社、1937年。
- 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第14版 東京篇』帝国秘密探偵社、1942年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 『会員氏名録 昭和18年用』学士会、1943年。
- 『婦人倶楽部 29(8)』講談社、1948年。