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富永嘉郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
富永 嘉郎
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 京都府
生年月日 1917年4月12日
没年月日 (2010-03-25) 2010年3月25日(92歳没)[1]
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手[2]
プロ入り 1938年
初出場 1940年[3]
最終出場 1944年8月13日[4]
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

富永 嘉郎(とみなが よしろう、1917年4月12日 - 2010年3月25日[1])は、京都府出身の元プロ野球選手。ポジションは外野手(プロ野球では、左翼手右翼手としての出場がある[2])。

来歴・人物

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平安中学(現・龍谷大学付属平安中学校・高等学校)在学中には、甲子園に6回(3回、3回)出場[5]1933年夏の大会では、エース・高木正雄宇野錦次(後に阪急,西鉄でプレー)、後年南海でチームメイトになる岡村俊昭らと共に、平安中学の準優勝に貢献した。

平安中学卒業後は同志社大学でプレーをし、1938年秋に南海軍の結成に参加・入団した。しかし、2度の出征1939年 - 1940年[6]1942年 - 1943年)が祟り、選手時代は全く結果を残せなかった。1944年に現役引退。

引退後は、長く南海ホークスのスカウトを務め、鶴岡一人監督の信頼も厚かった。日本人初のメジャーリーガーとなった村上雅則の二重契約問題(南海とサンフランシスコ・ジャイアンツ)が起こった際、スカウト部長として奔走した事で知られた[1]日本プロ野球OBクラブにも登録しており、南海結成時のメンバー最後の生き残りでもあった[1]

2010年3月25日に急性心不全のため大阪市中央区の自宅で死去。享年92。長男・伸定によれば、亡くなる前日までゲートボールをするなど、元気な様子だったという[1]。葬儀には、日本プロ野球OBクラブの当時の会長だった黒江透修が供花を贈った。

詳細情報

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年度別打撃成績

[編集]
















































O
P
S
1940 南海
近畿日本
1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 0 0 -- 0 0 -- .000 .000 .000 .000
1941 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 0 0 0 -- 0 0 -- ---- ---- ---- ----
1944 3 5 4 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 -- 1 -- 0 2 -- .000 .200 .000 .200
通算:3年 5 6 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 -- 0 2 -- .000 .167 .000 .167
  • 南海(南海軍)は、1944年途中に近畿日本(近畿日本軍)に球団名を変更

背番号

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  • 11 (1938年)[7]
  • 15 (1940年 - 1941年、1943年)[8]

注;1944年のシーズンは全6チーム背番号を廃止

脚注

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関連項目

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