コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

富田温一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

富田 温一郎(とみた おんいちろう、1887年明治20年〉10月21日 - 1954年昭和29年〉7月15日)は、日本洋画家雅号は温信[1]

略歴

[編集]

石川県金沢区中主馬町(現 金沢市菊川)の旧加賀藩藩士・富田信貫の長男として出生[2][3][4][5][6][7][8]

5、6歳の頃、父の富田信貫が石油事業を行うため新潟県に移住[5][6][7][8][9][10]中蒲原郡金津村新津町(現 新潟市秋葉区)や新潟市下大川前通2ノ町(現 新潟市中央区)などに居住[11][12]

1906年明治39年)3月に新潟中学校を卒業、1911年(明治44年)3月に東京美術学校西洋画科を卒業[2][3][4][5][6][7][8][13][14][15]

帝国劇場の背景を描く仕事の傍ら油彩画の制作を続け[6][7]1912年(明治45年)の第1回光風会展で『顏』と『藥』により最高賞の今村奨励賞を受賞[16][17]1914年大正3年)の第8回文展で『大學校庭の初夏』が初入選[2][3][4][6][8][13]1920年(大正9年)の第2回帝展で『母の肖像』が特選[2][3][4][5][6][7][8][13][14][15]1922年(大正11年)の平和記念東京博覧会で『河口』により二等賞を受賞[2][3][8]1928年昭和3年)の第9回帝展で『子供とその母』が特選[2][3][13]

1924年(大正13年)1月に中沢弘光らと白日会を創立[2][3][5][6][7][13][15][18]戦後日展の審査員を4回(第3・6・8・10回)務めた[2][3][5][14][15][19]

1954年(昭和29年)7月15日午後5時15分に東京都台東区谷中清水町6番地(現 池之端4丁目)の自宅で胃癌のため死去[2][3][20]、墓所は谷中霊園、白日会の白日会展における特別賞「富田温一郎賞」に名を残す[21]

画風は穏やかな外光派風であった[2][3][5]

役職

[編集]

関連人物

[編集]
島田一郎大久保利通暗殺事件の主犯)の大久保利通を殺害する計画に同意し、島田に旅費を供与した。そのため1879年明治12年)に禁獄10年の刑に処せられて入獄したが[9][25]、減刑されて1886年(明治19年)に出獄した[26][27]
富田温一郎は鈴木とともに東京美術学校の入学試験を受けるため新潟中学校の先輩で東京美術学校2年生の渡辺軔笠原軔)を頼って上し、渡辺(笠原)が借りた東京市下谷区谷中の植木屋の一室で3人で自炊生活をして受験に備えた[28]
富田温一郎は会津の家(現 北方文化博物館新潟分館)を訪問したり[29]、会津は富田の家(現 東京都台東区池之端4丁目)に宿泊したり[30][31]、富田の送別会(於 割烹・近江屋〈現 新潟市中央区古町通8番町〉)に出席したりしている[注 1]
  • 藤田嗣治(レオナール・フジタ) - 東京美術学校の先輩、洋画家。
富田温一郎は藤田とともに清元節の師匠の所に通ったり[33][注 2]帝国劇場背景部員として背景を描く仕事をしたりした[注 3]。富田はフランスに帰化する藤田の日本における東京美術学校の最後の同窓会の7人の出席者の一人であった[36]

関連項目

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 富田温一郎は民謡などを上手に唄い、芸者たちに伝授した[32]
  2. ^ 富田温一郎の長女は清元延千宗という名の清元節太夫になった[34]
  3. ^ 徹夜の時は帝国劇場の舞台の真ん中で背景部員たちが相撲を取った。富田温一郎は大関(最高位)格であった[35]

出典

[編集]
  1. ^ 增訂 現代書畫家名鑑』283頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 富田温一郎 - 東京文化財研究所
  3. ^ a b c d e f g h i j 日本美術年鑑 昭和30年版』180頁。
  4. ^ a b c d 20世紀 物故洋画家事典』206頁。
  5. ^ a b c d e f g 新潟県 県民百科事典』691頁。
  6. ^ a b c d e f g 新潟市美術館 全所蔵作品図録 絵画編』64頁。
  7. ^ a b c d e f 新潟日報社所蔵品による ふるさとの作家たち展』60頁。
  8. ^ a b c d e f 傳家寳典 下谷総覽』295頁。
  9. ^ a b 西南記傳 下卷 二』1025頁。
  10. ^ 金沢市史 資料編16 美術工芸』200頁。
  11. ^ 越佐 趣味の人々』16頁。
  12. ^ 商業登記」「廣吿」『官報』第5823号、715頁、内閣印刷局、1902年11月29日。
  13. ^ a b c d e 美術家人名事典 古今・日本の物故画家3500人』412頁。
  14. ^ a b c 新潟県大百科事典 下巻』222頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1346頁。
  15. ^ a b c d 市制100周年記念 新潟の絵画100年展』143頁。
  16. ^ 日本美術年鑑 第參卷』46頁。
  17. ^ 100回展全受賞者一覧(絵画) | 一般社団法人 光風会
  18. ^ 白日会とは | 白日会
  19. ^ 日本藝術院史』236-240頁。
  20. ^ 朝日𣂺聞』1954年7月17日付朝刊、7面。『新潟日報』1954年7月18日付夕刊、3面。
  21. ^ 審査と展示、選抜の方法 | 白日会
  22. ^ a b 現代美術家総覽』101頁。
  23. ^ 時事年鑑 昭和十四年版』514頁。『時事年鑑 昭和29年版』655頁。
  24. ^ 日本美術年鑑 昭和十五年版』「附錄」103頁。
  25. ^ 石川縣士族富田信貫犯罪處断 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
  26. ^ 減刑」「司法及警察」『官報』第1039号、155頁、内閣官報局、1886年12月15日。
  27. ^ 宮城集治監沿革史 明治・大正編』58頁。
  28. ^ 青山同窓会會報』第48号、10面。『青山同窓会會報』第52号、8面。
  29. ^ 會津八一全集 第七卷』旧版、428頁。『會津八一全集 第十一』増補版、181頁。
  30. ^ 會津八一全集 第十』増補版、137頁。『會津八一全集 第十二』増補版、529頁。
  31. ^ 會津八一・吉野秀雄 往復書簡〈下〉』106頁。
  32. ^ 會津八一全集 第七卷』旧版、429-430頁。『會津八一全集 第十一』増補版、183頁。
  33. ^ 巴里の晝と夜』58頁。
  34. ^ 第十五版 人事興信錄 下』「ト」14頁。
  35. ^ 美術』第12巻第5号、42頁。
  36. ^ 藤田嗣治 離日前、最後の同窓会 | 一般社団法人 板倉鼎・須美子の画業を伝える会

参考文献

[編集]
  • 「富田溫一郞」『日本美術年鑑 昭和十五年版』「附錄」103頁、美術研究所[編]、美術研究所、1941年。
  • 「富田温一郎」『日本美術年鑑 昭和30年版』180頁、東京国立文化財研究所美術部[編]、東京国立文化財研究所、1956年。
  • 「富田温一郎」『20世紀 物故洋画家事典』206-207頁、岩瀬行雄・油井一人[編]、美術年鑑社〈AA叢書 5〉、1997年。
  • 「富田温一郎」『美術家人名事典 古今・日本の物故画家3500人』412頁、日外アソシエーツ[編]、日外アソシエーツ、2009年。
  • 「富田温一郎」『新潟県大百科事典 下巻』222頁、竹内延夫[著]、新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
  • 「富田温一郎」『新潟県大百科事典』復刻デスク版、1346頁、竹内延夫[著]、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1984年。
  • 「富田温一郎」『新潟県 県民百科事典』691頁、小林理一[著]、野島出版編集部[編]、野島出版、1977年。
  • 「富田温一郎」『市制100周年記念 新潟の絵画100年展』143頁、新潟市美術館[編]、新潟市美術館、1989年。
  • 「富田温一郎」『新潟市美術館 全所蔵作品図録 絵画編』64頁、新潟市美術館[編]、新潟市美術館、2006年。
  • 「富田温一郎」『新潟日報社所蔵品による ふるさとの作家たち展』60頁、新潟市新津美術館[編]、新潟市新津美術館、2014年。
  • 「富田温一郎」『越佐人物誌 中巻』644頁、牧田利平[編]、野島出版、1972年。
  • 「富田溫一郞」『越佐 趣味の人々』16頁、吉岡金峰[著]、大新潟時報社、1938年。
  • 「富田温一郎」『增訂 現代書畫家名鑑』283頁、齋藤悳太郎[編]、大毎美術社、1934年。
  • 富田溫一郞」『現代美術家総覽』101頁、美術年鑑社[編]、美術年鑑社、1944年。
  • 富田溫一郞」『第十五版 人事興信錄 下』「ト」14頁、人事興信所[編]、人事興信所、1948年。
  • 「富田溫一郞君」『傳家寳典 下谷総覽』295頁、篠田皇民[著]、東京人事調査所下谷総覧編纂局、1923年。
  • 「富田温一郎氏」『朝日𣂺聞』1954年7月17日付朝刊、7面、朝日新聞社、1954年。
  • 「富田温一郎画伯」『新潟日報』1954年7月18日付夕刊、3面、新潟日報社、1954年。
  • 富田信貫傳」『西南記傳 下卷 二』1025-1026頁、黒龍会本部[編]、黒龍会本部、1911年。
  • 「明治19年10月16日 国事犯仮放免(大久保利通暗殺共犯者 富田信貫)」『宮城集治監沿革史 明治・大正編』58頁、柴修也[著]、柴修也(私家版)、2020年。
  • 画人笠原軔とその父漁村(十四) (PDF) 」『青山同窓会會報』第48号、10面、小林智明[著]、青山同窓会、1989年。
  • 画人笠原軔とその父漁村(十八) (PDF) 」『青山同窓会會報』第52号、8面、小林智明[著]、青山同窓会、1991年。
  • 『會津八一全集 第七卷』旧版、會津八一[著]、安藤更生・松下英麿・宮川寅雄吉野秀雄[編]、中央公論社、1959年。
  • 『會津八一全集 第十』増補版、會津八一[著]、安藤更生・長島健・松下英麿・宮川寅雄・吉野秀雄[編]、中央公論社、1983年。
  • 『會津八一全集 第十一』増補版、會津八一[著]、安藤更生・長島健・松下英麿・宮川寅雄・吉野秀雄[編]、中央公論社、1982年。
  • 『會津八一全集 第十二』増補版、會津八一[著]、安藤更生・長島健・松下英麿・宮川寅雄・吉野秀雄[編]、中央公論社、1984年。
  • 『會津八一・吉野秀雄 往復書簡〈下〉』會津八一記念館[監修]、伊狩章岡村浩・近藤悠子[編]、二玄社、1997年。
  • 『巴里の晝と夜』藤田嗣治岡鹿之助関澤秀隆柳澤健[述]、土門拳[写真]、世界の日本社〈『顏』FIGURES叢書 第3集〉、1948年。
  • 『美術』第12巻第5号、東邦美術学院、1937年。
  • 『時事年鑑 昭和十四年版』同盟通信社[編]、同盟通信社、1938年。
  • 『時事年鑑 昭和29年版』時事通信社[編]、時事通信社、1953年。
  • 日本美術年鑑 第參卷』日本美術年鑑編纂部[編]、画報社、1913年。
  • 『日本藝術院史』日本芸術院事務局[編]、日本芸術院事務局、1963年。
  • 『金沢市史 資料編16 美術工芸』金沢市史編さん委員会[編]、金沢市、2001年。

外部リンク

[編集]