寒川雲晁
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寒川 雲晁(さむかわ うんちょう、文政6年(1823年) - 明治40年(1907年)8月31日)は江戸時代末から明治の画家。名は輝久、別に泰平居とも称する。
経歴
[編集]吉田正義の子として文政6年(1823年)に江戸で生まれる。伯父の寒川養齋[1]の養子となり、木挽町の狩野派門人であった養父のほか谷文晁、大岡雲峰他に画を学ぶ。
住まいは浅草区三筋丁[2]。明治初めに民部省、内務省等に出仕したのち辞官、もっぱら絵の道に精進する。ところが世におもねることを嫌い、晩年は本所区北新堀[注釈 1]に閑居した。趣味の旅行のほか、狂歌[4]をたしなんだ。
養女トクの婿に迎えた大林芳蔵[注釈 2]は、門弟の関谷雲崖と同郷で栃木県那須郡出身である。
明治40年(1907年)8月31日、85歳で歿。戒名は法眼雲晁寒川源輝久居士。墓所は天台宗薬王山医王寺東光院[注釈 3](東京都台東区西浅草3-11-2)。
門弟
[編集]作品
[編集]- 大絵馬「盟神探湯(くがたち)の図」(輝久名)、明治3年(1870)、浅草寺蔵[7]。桐板絵、183cm×354cm。48歳の作[注釈 4]
- 「長生殿図」(雲晁名)、明治18年(1885)、個人蔵。掛軸紙本彩色。63歳の作
脚注
[編集]註
[編集]- ^ 芳蔵の前戸主の戸籍謄本に墨田区厩橋3丁目の記載があり、字義どおりの「北新堀丁」なら中央区である。本所区北新町は現在の東駒形、本所(旧厩橋)にあたることから、住居は北新町と推定[3]。
- ^ 日露戦争から帰った芳蔵を雲崖が気に入り、縁組の仲立ちをしたという。
- ^ 医王寺東光院は慈覚大師の草創で、局沢(現皇居吹上御苑付近)に天長年間(824–330)に結ばれ、開基は大師の高弟光尊阿闍梨と伝わる。太田道灌築城の際本尊薬師如来を鬼門除けとし、徳川家康の入府後は盤橋御門北、小伝馬町へ、さらに振袖火事で現在地へ引寺。 慶応4年(1868年)上野戦争の折、山内を逃れた輪王寺宮を一晩匿ったため、新政府より数々の圧迫を受けた経緯がある。小伝馬町時代には、浅草寺、観理院(日枝神社別当)とともに江戸天台宗大寺三か寺に数えられた。
- ^ 列品解説26に「…画法を父および大岡雪峰に学んだ…」とあるが〈雲峰〉の誤り。
参考文献
[編集]- ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 323.
- ^ 『画家一覧』永楽堂、東京、1876年12月 。電子版あり。所蔵:神奈川県立近代美術館(青木文庫)
- ^ 角川地名大辞典 1998, p. 244.
- ^ 日本人名大事典 1983, p. 172.
- ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 247.
- ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 229.
- ^ 絵馬図録.
参考文献
[編集]- 「列品解説26」『金龍山浅草寺絵馬図録』金龍山浅草寺、1978年10月。
- 『日本人名大事典』平凡社、1983年、172頁。
- 『東京都』 13巻〈角川地名大事典〉、1998年、244頁。
- 『日本書画鑑定大事典』 1巻、国書刊行会、2006年、229,247頁。
- 『日本書画鑑定大事典』 13巻、国書刊行会、2006年、323頁。