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寒川雲晁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

寒川 雲晁(さむかわ うんちょう、文政6年(1823年) - 明治40年(1907年8月31日)は江戸時代末から明治画家。名は輝久、別に泰平居とも称する。

経歴

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吉田正義の子として文政6年(1823年)に江戸で生まれる。伯父の寒川養齋[1]の養子となり、木挽町の狩野派門人であった養父のほか谷文晁大岡雲峰他に画を学ぶ。

住まいは浅草区三筋丁[2]。明治初めに民部省内務省等に出仕したのち辞官、もっぱら絵の道に精進する。ところが世におもねることを嫌い、晩年は本所区北新堀[注釈 1]に閑居した。趣味の旅行のほか、狂歌[4]をたしなんだ。

養女トクの婿に迎えた大林芳蔵[注釈 2]は、門弟の関谷雲崖と同郷で栃木県那須郡出身である。

明治40年(1907年)8月31日、85歳で歿。戒名は法眼雲晁寒川源輝久居士。墓所は天台宗薬王山医王寺東光院[注釈 3](東京都台東区西浅草3-11-2)。

門弟

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  1. 永井雲濤[5] 慶応元年(1865)江戸生まれ。
  2. 関谷雲崖[6] 明治13年(1880)栃木県生まれ。後に小室翠雲の門下に入り、日本南画院同人。

作品

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  • 大絵馬「盟神探湯(くがたち)の図」(輝久名)、明治3年(1870)、浅草寺蔵[7]。桐板絵、183cm×354cm。48歳の作[注釈 4]
  • 「長生殿図」(雲晁名)、明治18年(1885)、個人蔵。掛軸紙本彩色。63歳の作

脚注

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  1. ^ 芳蔵の前戸主の戸籍謄本に墨田区厩橋3丁目の記載があり、字義どおりの「北新堀丁」なら中央区である。本所区北新町は現在の東駒形、本所(旧厩橋)にあたることから、住居は北新町と推定[3]
  2. ^ 日露戦争から帰った芳蔵を雲崖が気に入り、縁組の仲立ちをしたという。
  3. ^ 医王寺東光院は慈覚大師の草創で、局沢(現皇居吹上御苑付近)に天長年間(824–330)に結ばれ、開基は大師の高弟光尊阿闍梨と伝わる。太田道灌築城の際本尊薬師如来を鬼門除けとし、徳川家康の入府後は盤橋御門北、小伝馬町へ、さらに振袖火事で現在地へ引寺。 慶応4年(1868年)上野戦争の折、山内を逃れた輪王寺宮を一晩匿ったため、新政府より数々の圧迫を受けた経緯がある。小伝馬町時代には、浅草寺、観理院(日枝神社別当)とともに江戸天台宗大寺三か寺に数えられた。
  4. ^ 列品解説26に「…画法を父および大岡雪峰に学んだ…」とあるが〈雲峰〉の誤り。

参考文献

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  1. ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 323.
  2. ^ 画家一覧』永楽堂、東京、1876年12月https://www.tobunken.go.jp/materials/banduke/806976.html 電子版あり。所蔵:神奈川県立近代美術館(青木文庫)
  3. ^ 角川地名大辞典 1998, p. 244.
  4. ^ 日本人名大事典 1983, p. 172.
  5. ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 247.
  6. ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 229.
  7. ^ 絵馬図録.

参考文献

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  • 「列品解説26」『金龍山浅草寺絵馬図録』金龍山浅草寺、1978年10月。 
  • 『日本人名大事典』平凡社、1983年、172頁。 
  • 『東京都』 13巻〈角川地名大事典〉、1998年、244頁。 
  • 『日本書画鑑定大事典』 1巻、国書刊行会、2006年、229,247頁。 
  • 『日本書画鑑定大事典』 13巻、国書刊行会、2006年、323頁。 

関連項目

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