寺島蔵人
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寺島 蔵人(てらしま くらんど、1777年(安永6年) - 1837年10月2日(天保8年9月3日))は、加賀藩の藩士。諱は兢(つよし)。
人持組原元成(1280石)の三男として生まれる。1801年(享和元年)馬廻組寺島恵和(禄高450石)の末期養子となり、改作奉行、大坂借財仕法主付など、主に藩の農政、財政方面の実務を歴任した。1824年(文政7年)、12代藩主前田斉広によって教諭方の一員に抜擢された。教諭方とは斉広が有能な藩士を集めて設置した、藩政改革のための親政機関であったが、同年斉広が急死すると教諭方も解散された。蔵人は斉広亡き後の藩政を巡って藩の重臣と対立し、翌1825年(文政8年)に役職を追われた。1837年(天保8年)に能登島流刑となり、同年死去した。
蔵人は画家としても知られ、王梁元、応養と号し、浦上春琴や山本梅逸をはじめとする笑社の文人と交流し、秀作を多数残している。また春琴の父・浦上玉堂を自邸に招くなど、琴士としても知られている。
現在、寺島蔵人の屋敷は金沢市指定史跡として、金沢市大手町に保存されている。