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寺本熊市

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寺本 熊市てらもと くまいち
生誕 1889年1月3日
大日本帝国の旗 大日本帝国 和歌山県
死没 (1945-08-15) 1945年8月15日(56歳没)
大日本帝国の旗 大日本帝国 東京都
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1910 - 1945
最終階級 陸軍中将
墓所 多磨霊園
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寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年明治22年)1月3日[1][2] - 1945年昭和20年)8月15日[1][2])は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

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和歌山県出身[1][2][3]八幡社神官・寺本政吉の息子として生まれる[1]五条中学仙台陸軍地方幼年学校中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる[1][4]。陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した[1][2][3]。翌月、歩兵第10連隊中隊長に就任[1]

1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀を歴任[1]1925年(大正14年)5月、兵科航空兵科に転じ航空兵大尉となる[1]。同年8月、航空兵少佐に昇進し飛行第2連隊付に発令[1]1926年(大正15年)8月、陸軍航空本部員に転じ、1927年(昭和2年)12月、航空本部付として陸大専攻学生となった[1]1928年(昭和3年)12月、アメリカ大使館武官補佐官に就任[1]1930年(昭和5年)3月、航空兵中佐に進級[1]1931年(昭和6年)2月、参謀本部付となり、同年5月に帰国[1]。同年6月、航空本部員に就任[1]1933年(昭和8年)8月、航空兵大佐に昇進し飛行第8連隊長に着任[1][3]

1934年(昭和9年)11月、臨時飛行第2大隊長に転じ満州事変に出動[1][2][3]飛行第16連隊長、航空本部員、留守航空兵団参謀長を歴任[1][3]1937年(昭和12年)11月、陸軍少将に進級し浜松陸軍飛行学校幹事に就任[1][2][3]1938年(昭和13年)6月、航空兵団参謀長に異動し日中戦争に出征[1][2][3]。浜松飛行学校長を経て、1940年(昭和15年)8月、陸軍中将に進み第2飛行集団長となり満州に赴任し太平洋戦争を迎えた[1][2][3]

1942年(昭和17年)4月、第2飛行集団が第2飛行師団に改編され師団長となる[1][2][3]1943年(昭和18年)5月、第1航空軍司令官に就任し東京に赴任[1][2][3]。同年7月、第4航空軍司令官に転じ[1][2][3]ニューギニアの航空戦を指揮し[要出典]、その後、フィリピンの防衛に当たる[2]1944年(昭和19年)8月、航空本部付となり帰国し、陸軍航空審査部本部長事務取扱、航空本部長を歴任[1][2][3]終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月15日に自決した[1][2][3]

栄典

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位階
勲章

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『日本陸海軍総合事典』第2版、106頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸軍将官辞典』487-488頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』274頁。
  4. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』271、274頁。
  5. ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
  6. ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
  7. ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
  8. ^ 『官報』第3534号「叙任及辞令」1924年6月5日。
  9. ^ 『官報』第3283号「叙任及辞令」1937年12月10日。
  10. ^ 『官報』1942年7月17日、叙任及辞令。

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。

関連項目

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