寺本熊市
生誕 |
1889年1月3日 大日本帝国 和歌山県 |
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死没 |
1945年8月15日(56歳没) 大日本帝国 東京都 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1910 - 1945 |
最終階級 | 陸軍中将 |
墓所 | 多磨霊園 |
寺本 熊市(てらもと くまいち、1889年(明治22年)1月3日[1][2] - 1945年(昭和20年)8月15日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]和歌山県出身[1][2][3]。八幡社神官・寺本政吉の息子として生まれる[1]。五条中学、仙台陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1910年(明治43年)5月、陸軍士官学校(22期)を卒業[1][2][4]。同年12月、歩兵少尉に任官し歩兵第10連隊付となる[1][4]。陸士生徒隊付などを経て、1921年(大正10年)11月、陸軍大学校(33期)を卒業した[1][2][3]。翌月、歩兵第10連隊中隊長に就任[1]。
1922年(大正11年)12月、参謀本部付勤務となり、参謀本部員、第3師団参謀を歴任[1]。1925年(大正14年)5月、兵科を航空兵科に転じ航空兵大尉となる[1]。同年8月、航空兵少佐に昇進し飛行第2連隊付に発令[1]。1926年(大正15年)8月、陸軍航空本部員に転じ、1927年(昭和2年)12月、航空本部付として陸大専攻学生となった[1]。1928年(昭和3年)12月、アメリカ大使館付武官補佐官に就任[1]。1930年(昭和5年)3月、航空兵中佐に進級[1]。1931年(昭和6年)2月、参謀本部付となり、同年5月に帰国[1]。同年6月、航空本部員に就任[1]。1933年(昭和8年)8月、航空兵大佐に昇進し飛行第8連隊長に着任[1][3]。
1934年(昭和9年)11月、臨時飛行第2大隊長に転じ満州事変に出動[1][2][3]。飛行第16連隊長、航空本部員、留守航空兵団参謀長を歴任[1][3]。1937年(昭和12年)11月、陸軍少将に進級し浜松陸軍飛行学校幹事に就任[1][2][3]。1938年(昭和13年)6月、航空兵団参謀長に異動し日中戦争に出征[1][2][3]。浜松飛行学校長を経て、1940年(昭和15年)8月、陸軍中将に進み第2飛行集団長となり満州に赴任し太平洋戦争を迎えた[1][2][3]。
1942年(昭和17年)4月、第2飛行集団が第2飛行師団に改編され師団長となる[1][2][3]。1943年(昭和18年)5月、第1航空軍司令官に就任し東京に赴任[1][2][3]。同年7月、第4航空軍司令官に転じ[1][2][3]、ニューギニアの航空戦を指揮し[要出典]、その後、フィリピンの防衛に当たる[2]。1944年(昭和19年)8月、航空本部付となり帰国し、陸軍航空審査部本部長事務取扱、航空本部長を歴任[1][2][3]。終戦を迎えた1945年(昭和20年)8月15日に自決した[1][2][3]。
栄典
[編集]- 位階
- 1911年(明治44年)3月10日 - 正八位[5]
- 1914年(大正3年)2月10日 - 従七位[6]
- 1919年(大正8年)3月20日 - 正七位[7]
- 1924年(大正13年)5月15日 - 従六位[8]
- 1937年(昭和12年)12月1日 - 正五位[9]
- 勲章
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa 『日本陸海軍総合事典』第2版、106頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『日本陸軍将官辞典』487-488頁。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』274頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』271、274頁。
- ^ 『官報』第8313号「叙任及辞令」1911年3月11日。
- ^ 『官報』第460号「叙任及辞令」1914年02月12日。
- ^ 『官報』第1988号「叙任及辞令」1919年03月21日。
- ^ 『官報』第3534号「叙任及辞令」1924年6月5日。
- ^ 『官報』第3283号「叙任及辞令」1937年12月10日。
- ^ 『官報』1942年7月17日、叙任及辞令。