寿々喜多呂九平
すすきた ろくへい 寿々喜多 呂九平 | |
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本名 | 神脇 榮満 |
別名義 |
ロクヘイ・ススキタ 加味鯨児 新妻逸平太 神脇満 |
生年月日 | 1899年 |
没年月日 | 1960年12月18日 |
出生地 | 日本・鹿児島県 |
職業 | 脚本家・映画監督・映画プロデューサー |
活動期間 | 1923年 - 1954年 |
主な作品 | |
脚本 『雄呂血』 |
寿々喜多 呂九平(すすきた ろくへい、1899年 - 1960年12月18日)は、日本の脚本家、映画監督、映画プロデューサーである。ロクヘイ・ススキタ、加味鯨児、新妻逸平太、あるいは神脇 満(かみわき みつる)名義でも作品を発表した。20代半ばに書いた阪東妻三郎プロダクション製作の『雄呂血』の脚本で知られる。『日本映画監督全集』(キネマ旬報社、1976年)で本名を「神脇満」と紹介されたが、これは誤り。正しくは神脇榮満(えいみつ)である。
来歴
[編集]長じて浅草オペラに出入りし、「ペラゴロ」(浅草オペラの熱狂的なファン)となり、活動写真の看板屋となる[1]。
1922年(大正11年)春、22歳のとき、横浜の大正活映にいた知人山内英三(のちの映画監督)のツテで『実録忠臣蔵』の試写を観て、監督の牧野省三に傾倒して京都入り、同作を製作した「牧野教育映画製作所」の文芸部に入社した。
同じ下宿にいた阪東妻三郎、二川文太郎、井上金太郎ら俳優と映画論を戦わせ、まだ無名だった阪東を牧野に推薦する。
1923年(大正12年)6月1日の「マキノ映画製作所」設立の翌月には、牧野・金森万象共同監督による市川幡谷主演作品『紫頭巾浮世絵師』で、脚本家としてデビューした。阪東が初めて主演に抜擢された寿々喜多脚本第2作『鮮血の手型 前篇・後篇』(監督沼田紅緑、同年10月17日前篇、同26日後篇公開)をはじめ、同社でわずか1年の間に24作の脚本を量産した。寿々喜多のニヒリスティックな脚本は、従来の剣戟俳優との違いを明確にし、阪東を一躍スターにした[2]。
マキノ映画製作所が東亜キネマと合併しても同社の「等持院撮影所」で、マキノ・プロダクションとして再独立しても同社の「御室撮影所」で、牧野省三のもとで実に56本もの脚本を書きまくっていたが、1929年(昭和4年)7月25日に牧野が死去すると、翌1930年(昭和5年)、帝国キネマ演芸に移籍、映画監督に転向する。監督デビュー作は松本泰輔主演の無声映画『水戸黄門 遍歴奇譚』で、同年10月24日に浅草「常磐座」等で公開された。翌1931年(昭和6年)、帝国キネマが新興キネマに改組されてからも含めて、1939年(昭和14年)までに34本を監督したが、1940年(昭和15年)7月25日に公開された大友柳太郎主演の『花婿五千石』からは本名の神脇榮満(えいみつ)に似た「神脇満」名で翌1941年(昭和16年)までに3本を監督した[3]。
1942年(昭和17年)の戦時統合で新興キネマが大映となり、1945年に終戦を迎え、しばらく消息がわからなくなるが、1946年(昭和21年)に公開された、京都映画社製作の短篇アニメ映画『魔法のペン』で脚本家として復活している。また1949年(昭和24年)、マキノ雅弘らの制作プロダクション「CAC」が製作、東宝が配給した阪東妻三郎の主演映画『佐平次捕物帳 紫頭巾 前篇・後篇』で「原作」としてクレジットされている[3]。
1951年(昭和26年)設立の宝塚映画で50代を過ごしているようで、1953年(昭和28年)、野淵昶監督の『千姫』の脚本を書き、翌1954年(昭和29年)には「ロクヘイ・ススキタ」名義で、『快傑鷹』全3作を13年ぶりに監督している。監督としてはこれが遺作になる。1957年(昭和32年)には柳家金語楼の主演映画のプロデューサーとして、「神脇満」名がクレジットされている[3]。
1960年(昭和35年)12月18日、死去。61歳没。死にいたる日々は半身不随であったという[2]。
人物・エピソード
[編集]「ペラゴロ」だった呂九平が、マキノの門を叩いた際に持参したのは、処女作『佐平治捕物帖・浮世絵師』だった。助監督兼雑用係としてマキノに入社したが、たまたま阪東妻三郎と同じ下宿だったため意気投合、無二の親友となった。
『鮮血の手形』は、バンツマのために呂九平が書き下ろした脚本であり、これは上述の『佐平治捕物帖』を発展させたものである。呂九平はやはり浅草オペラ出身のアナキストで、漠与太平門下生の二川文太郎監督とのコンビで、1923年(大正12年)から1925年(大正14年)にかけて、『恐怖の夜叉』、『討たるる者』、『影法師』、『墓石が鼾する頃』、『雄呂血』と、バンツマの人気を不動とした脚本を十三本書いている。このころ、呂九平は次のように語っている。
- 「旧劇は既に過去のものであった、青年から見放されていた。さればこそ、私は時代劇の世界へと、あえて身を投じた、未開拓の処女地に最初の楔を打つために」
呂九平の硬骨の姿勢は『雄呂血』(1925年)に、「世に無頼漢と称する者、そは天地に愧じぬ正義を理想とする若者にその汚名を着せ、明日を知れぬ流転の人生へと突き落とす、支配勢力・制度の悪ならずや」との字幕に現れているが、これは当局の検閲で丸々カットとなった。また同じく『討たるる者』でも、「仇討」の不毛さを嘆くセリフがカットされている[4]。
関連事項
[編集]- 牧野教育映画製作所 - マキノ映画製作所 - 東亜キネマ - マキノ・プロダクション (牧野省三)
- 帝国キネマ - 新興キネマ
- 阪東妻三郎プロダクション (阪東妻三郎)