専福寺
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専福寺 | |
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所在地 | 長野県中野市竹原850 |
位置 | 北緯36度45分54.6秒 東経138度22分49.8秒 / 北緯36.765167度 東経138.380500度座標: 北緯36度45分54.6秒 東経138度22分49.8秒 / 北緯36.765167度 東経138.380500度 |
山号 | 大熊山 |
宗派 | 真宗大谷派 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 1484年 |
開山 | 了観和尚 |
法人番号 | 9100005005364 |
専福寺(せんぷくじ)は、長野県中野市竹原にある真宗大谷派の寺院である。山号は大熊山。本尊は阿弥陀如来。
概要
[編集]開山は室町時代中期の1484年(文明16年)。了観(浄興寺9世住職巧観の弟)が、本願寺8世蓮如上人(本願寺中興の祖)より阿弥陀如来のご本尊が与えられ、城主高梨氏の援護を受け、中野市大熊に分寺したのを始まりとする[1][2]。
本堂
[編集]1646年(正保2年)仮本堂として建立されたものを、1733年(享保18年)七間四面に増築され、1985年(昭和60年)に開基五百年の事業として外陣を改修し、2007年(平成19年)屋根および内陣を改修した。阿弥陀如来像(本願寺派の様式)が安置されている[1][2]。
歴史
[編集]- 1484年(文明16年) 了観(浄興寺9世住職巧観の弟)が、本願寺8世蓮如上人(本願寺中興の祖)より阿弥陀如来のご本尊が与えられ、城主高梨氏の援護を受け、中野市大熊(今の北大熊)に分寺。
- 1577年 (天正5年) 石山合戦に兵糧送る。十俵一斗。
- 1592年 (文禄元年) 本堂建立する。
- 1646年(正保2年) 山崩れのため堂宇倒壊し、現在の中野市竹原に移転、仮本堂建立。
- 1676年(延宝5年) 大谷派本願寺門跡琢如上人より阿弥陀如来木造下付。(紙本本尊と引替えて安置)
- 1723年(享保8年) 鐘楼建替え。
- 1733年(享保18年) 本堂増築。
- 1885年 (明治19年) 竹原学校開校。(場所 専福寺)
- 1896年(明治29年) 太子堂(太子林(夜間瀬川のそばにあった))のお堂、大洪水で流され境内に移転。
- 1943年 (昭和18年) 梵鐘供出。
- 1945年 (昭和20年) (東京)千住第六国民学校専福寺学寮開校。5月~11月(疎開)
- 1948年(昭和23年) 梵鐘再鋳。
- 1968年(昭和43年) 客殿建替え。落慶法要。そのときくぼみ石数個発見。
- 1979年(昭和54年) 太子堂建替え(聖徳太子の像を安置)。
- 1985年(昭和60年) 開基五百年法要。記念碑建立。
- 2007年(平成19年) 本堂屋根・内陣改修。
- 2010年 (平成22年) 蓮如上人五百回御遠忌法要兼本堂修復落慶法要。(東本願寺信悟院連枝御参修)[1][2]。
境内
[編集]- 本堂
- 太子堂
- 鐘楼(毎日、午前11時30分に「勧農の鐘」(梵鐘)を鳴らす。)
- 菩提樹(本山、法主より植樹されたもの。)
- 開基五百年記念碑(開基五百年を記念し建てられた。)
- くぼみ石(石器時代のもの)
- 龍勢(明治頃まで行われていた竹原の花火で巨大なロケット花火。(長さ5m))
- 筆塚(江戸時代中期頃に地区の方に習字を教えていた秀階住職の墓。)[1]
歴代
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 信濃の寺刊行会「専福寺」『信濃の寺』信濃の寺刊行会、1970年2月15日、56-58頁。