小久慈焼
歴史
[編集]1813年(文化10年)、相馬の陶工嘉蔵が、小久慈天田内の甚六の助けを得て、三日町に築窯したのが始まりと言われる[1]。その後、甚六の子熊谷甚右衛門が嘉蔵に師事し陶器を焼き、その技法は熊谷家で代々引き継がれた[1]。甚右衛門は師の技術を修得すると、地元の粘土や独自の釉薬を用いて、茶器などを製作した[2]。明治時代には柳宗悦にも評価された[2]。創始時から現代まで窯元は一つで、江戸時代以前から続く窯元としては日本最北である[2]。6代目竜太郎、分家4代目初太郎が没してからは、地場産業育成の期待を担った下嶽毅・四役松男によって、1957年(昭和32年)小久慈に窯が築かれ、その伝統を守りながら生産が続けられている[1]。2019年時点では8代目である[2]。
なお、一部に久慈を領した八戸藩(盛岡藩の支藩)の御用窯であったと称える向きがあるが、八戸藩に御用窯があった記録は無く、盛岡藩にも小久慈に御用窯があったとの記録は無い。
特徴
[編集]地元から取れる粘土を元に、わら灰を使った暖か味のある白釉、砂鉄を使ったアメ紬がある[1]。
小久慈焼の代表的な作品は注ぎ口の長い片口である[2]。他にも食器や日用雑器などを焼いているが、糠白釉や飴釉、掛分釉だけを流し掛けただけの素朴な味わいが特色となっている[2]。久慈の粘土は鉄分が少ないため、白色がきれいに出るという[2]。素朴でかわいい風合いの「暮らしの器」で、市内のどの家庭にも一つは置いてあると言われるほど、地元に親しまれている[3]。
近年ではJR東日本の観光列車である「TOHOKU EMOTION」(八戸線)や「TRAIN SUITE 四季島」の飲食用の器として採用されている[2]。