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小堀正十

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小堀 正十
時代 江戸時代前期
生誕 慶長6年(1601年
死没 正保元年4月4日1644年5月10日[1]
別名 九郎兵衛、宗貞(号)
墓所 広徳寺→法身寺[1][2]
幕府 江戸幕府 旗本
氏族 小堀氏
父母 小堀正行(宗虎)
兄弟 正十、小倉政守、政代、勘兵衛、快応
前妻:神尾元勝娘、後妻:竹中重門[1]
小堀政孝、政利、政直、柳沢政俊妻
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小堀 正十(こぼり まさとお)は、江戸時代前期の旗本。禄高は3000石[2]。茶道小堀遠州流家元の第3世で、号は「宗貞」[1]

小堀遠州流第2世の小堀正行の長男で[1]小堀政一の甥にあたる[2]

元和2年(1616年)8月に将軍徳川秀忠に拝謁し、父の遺領を継ぐ。元和3年(1617年)、備中国の知行を近江国浅井郡に移される。元和5年(1619年)4月より書院番士を、寛永10年(1633年)6月14日より進物番となる。寛永11年(1634年)より多賀大社の造営奉行を務めたほか、寛永17年(1640年)の生駒騒動の際には目付の代理として讃岐国高松に赴いた[2]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e 歴代家元 - 小堀遠州流
  2. ^ a b c d 寛政重修諸家譜』巻第千二十四