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少子部蜾蠃

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小子部栖軽から転送)

少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)は、『日本書紀』、『日本霊異記』に見える雄略天皇時代の豪族。「少子部栖軽」もしくは「小子部栖軽」と書かれることもある。「多神宮注進帳」によれば、多武敷の子、多清眼の弟とされる。

名称

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「蜾蠃」(スガル)とは、『万葉集』巻第九1738の長歌に「腰細のすがる娘子」とあり[1]、腰の細い似我蜂を指す。「少子部」は「子部(児部)」と同様に、天皇(大王)の側近に仕える童子女孺らの養育費を担当する品部であろうと思われ、『釈日本紀』も同様の説をとっている。小子部連氏は、『古事記』の神武天皇の項目や『新撰姓氏録』では、神八井耳命の子孫となっており、天武天皇13年(西暦685年)に「宿禰」のを賜っている[2]

経歴

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『日本書紀』雄略天皇六年三月の条(推定462年)に、后妃への養蚕を勧める雄略天皇から日本国内の蚕(こ)を集めるよう命令されたが、スガルは誤って児(嬰児)を集めてしまった。雄略天皇は大笑いして、スガルに「お前自身で養いなさい」と言って皇居の垣の近くで養育させた。同時に少子部連の姓を賜った。とある[3]

さらに同七年七月の条には、雄略天皇はスガルに「私は三輪山の神の姿を見たい。お前は腕力が優れているから、行って捕らえてこい。」と命令した。スガルは「ためしにやってみましょう。」と答え、三輪山に登って大蛇を捕らえ天皇に献じた。大蛇はのような音をたて目をきらきらと輝かせた。恐れた雄略天皇は目を覆い、殿中へ逃げ込んだ。大蛇は山に放たれ、その山を雷(イカズチ)と名付けた。とある[4]

また『日本霊異記』によると、天皇が磐余の宮の大極殿(大安殿)で后と寝ているとき、あやまって栖軽がそこへ入ってしまった。天皇は恥じた。そこへ雷鳴がとどろいたので、天皇は栖軽に「あの雷をお招きしてこい」と命じた。そこで栖軽は赤色のかづらを額につけ、赤旗を付けた鉾を捧げ持って馬に乗り、阿部の山田村の前から豊浦寺の前の道を走り、軽の諸越の分かれ道のところに来て、大声で「天の雷の神よ、天皇がお呼びですぞ」と叫んだ。そこから馬を引き返しながら「雷神といえども、天皇のお召しに応じないことができようか」と言った。その途中、豊浦寺と飯岡との間で雷が落ちていた。栖軽は雷を輿に入れて天皇の元へお運びした。雷は光を放って明るく輝いたので、天皇は畏れて幣帛を供えて雷をもとのところに返させた。その場所は飛鳥の小治田の宮にあり、いま雷の丘と呼んでいる。そののち栖軽は死に、忠臣ぶりを偲んだ天皇は雷が落ちた場所に墓を作り、「雷を捕らえた栖軽の墓」と碑文の柱をお立てになった。雷はこれを怒って鳴り落ちて碑文の柱を踏みつぶした。ところが柱の裂け目に足が挟まって捕らえられた。天皇は雷を逃がしてやり、碑文の柱を立て「生きても死んでも雷を捕まえた栖軽の墓」となさった、とある[5]

『新撰姓氏録』「山城諸蕃」の秦忌寸の項には、大隅・阿多の隼人らを率い、諸国に分散した秦氏の92部1万8670人を集めたという伝承が付記としてあり、『和州五郡神社神名帳大略注解』の引用する、久安5年(1149年)3月、多神宮注進状の子部神社の条にも、スガルにまつわる記録が掲載されており、スガルは多武敷の子、多清眼の弟とされる[6]

脚注

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  1. ^ 『萬葉集』三、完訳 日本の古典3(小学館、1984年)
  2. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条
  3. ^ 『日本書紀』雄略天皇6年3月7日条
  4. ^ 『日本書紀』雄略天皇7年7月3日条
  5. ^ 『日本霊異記』上巻「雷(いかずち)を捉へし縁(えに) 第一」
  6. ^ 谷川健一, 池田末則, 宮田登編『日本庶民生活史料集成 第26巻 神社縁起』(三一書房、1983年)

参考文献

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