コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小山久之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小山久之助

小山 久之助(こやま ひさのすけ、安政6年2月5日[1]1859年3月9日) - 明治34年(1901年10月3日)は、日本の政治家衆議院議員は騁斉。

来歴

[編集]

信濃国佐久郡小諸城下与良町に小山敬義の次男として生まれる。小諸藩士の山本杏園に漢学を学び、明治5年(1872年)、私塾を開いて「孟子」を論ずる。同11年(1878年)新潟県師範学校に入学したが中退し、上京して興法学舎や、 中江兆民仏学塾に学び、幸徳秋水とともに両高弟と称された。明治15年(1882年)、自由民権の雑誌「政理叢談」の発刊に加わり、欧米の憲法論を紹介した。

明治20年(1887年)の保安条例で兆民らが「皇居三里外」に追放され、仏学塾が解散したため、後藤象二郎大石正巳らと全国を遊説した。翌明治21年(1888年)大阪で「東雲新聞」を発刊し、国会開設運動を論じた。明治31年(1898年)第6回衆議院議員総選挙自由党から当選したが、板垣退助と決別し脱党し、改進党に入るが離党。議会で軍拡の地租増徴法案が審議された際、星亨の買収を暴露した。兆民の遺稿『一年有半』の出版に尽力したが、病没した。

親族

[編集]

参考文献

[編集]
  • 『千曲川』[2]

脚注

[編集]
  1. ^ 『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年、p.421。
  2. ^ 小山敬吾『千曲川』株式会社創史社、1980年10月3日、53-78,108-127頁。 

出典

[編集]
  • 『信濃人物志』 文正社、1922年。
  • 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『角川日本姓氏歴史人物大辞典 20 長野県姓氏歴史人物大辞典』角川書店、1996年。