コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小山内美智子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小山内美智子(おさない みちこ)は、自身が脳性麻痺である障害者運動家。著作家。 札幌市在住。

年譜

[編集]
西暦 年齢
1953 0 6月15日 北海道上川郡和寒町字北原村で、7か月の未熟児として生まれる。
1959 6 一家は田畑を売って札幌に転居。
1962 9 [注 1] 北海道立札幌整肢学院入学。
1966 12 北海道真駒内養護学校小学部5年に転入。
1974 20 真駒内養護学校高等部卒。
1974[注 2] 21 西村秀夫の訪問を受け、手紙のやりとりが始まる。自分の意見を言うことを教えられる。
1977 23 当時計画中の道立福祉村への希望を語り合う会として、長嶺(のち澤口)京子らと札幌いちご会を結成。
1978 24 小山内、長嶺、林香代らとボランティアで、独立生活が可能か、1か月の実験合宿。北海道庁職員も視察に来所。
1979 26 道立福祉村が栗沢町(現岩見沢市)に開村。個室化実現。小山内らは入居せず。
1979 26 8月1ヶ月間スウェーデンの福祉を視察旅行(脳性まひの米村哲朗、ボランティアの河村(のち勝又)圭伊子の3人)
1980 27 土井正三、池田源一らと3世帯で、父親所有のアパートを使い、個室生活をはじめる。
1982 28 札幌市が地下鉄の白石駅、琴似駅、大通駅にエレベーターを設置。
1984 31 小山内は12歳年下の男性ボランティアと婚約。入籍は翌年。
1985 31 長男の大地を出産。
1986 33 日本初、公営ケアつき住宅8世帯が札幌にできる。
1987 33 いちご会で資金集めのため、書き損じハガキ募集を開始。
1989 35 いちご会事務所は小山内の部屋から独立。いちご会でホームヘルパー派遣制度。
1990 36 離婚。
1990 37 札幌市で全身性重度障害者介護料助成事業がはじまる。
1991 38 頚椎症の安静のため、小山内は足でのタイプライター使用を断念。口述筆記を開始。
1992 38 頚椎症を手術。
1993 40 五十嵐広三建設大臣が、全国の公営住宅の一階を障害者用でハーフメイド方式とする(台所など各種設備を入居者決定後に調整する)。
1994 41 9歳の長男をつれてスウェーデン再訪。
2000 46 社会福祉法人アンビシャスを開所し、施設長。その名づけ親も西村秀夫。
2002 48 母久子死去。
2014 61 アンビシャスの施設長を退任。

交流関係

[編集]
澤口京子
整肢学院に入学した9歳からの友人。小山内より1年年下。旧姓長嶺。1977年に小山内と札幌いちご会をはじめ、副会長。1978年の実験合宿当時のボランティア澤口照動と、1979年に24歳で結婚。
西村秀夫
東京大学から北海道リハビリーに転任時に小山内家を訪問。小山内が施設で書いた作文を読み、会いたいと思ったという。
木村浩子
山口県で民宿経営。足で子供にミルクを飲ませて育児する母親として、1970年にNHKが放映し、小山内も見た。18歳の時、山口県へ会いに行った。小山内にも結婚・出産ができるかもしれないという希望を与えた。
茶木豊子
1978年小山内が療護施設グリーンハイムを訪問し、出会う。口にくわえた棒でタイプを打つ。1986年福祉村を退村し自立生活を開始。1996年食物の窒息が原因で気管切開、その年死去。
オーサ・ランブリンク
ストックホルム在住。1979年に知り合う。当時21歳。小山内そっくりに、手のかわりに足を使う生活をしていた。1981年に札幌を訪問。
黒柳徹子
『足指でつづったスウェーデン日記』の帯を、朝日新聞社を通して依頼したのが出会い。1986年のいちご会の資金危機時にチャリティーコンサートを企画し援助。
鹿野靖明
いちご会の会計。1983年に自立生活をはじめた。持病は筋ジストロフィー。渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』の主人公。
浅野史郎
1985年に厚生省から北海道福祉課へ転任。横路孝弘知事の下で1986年に8世帯の道営ケアつき住宅を建設。のち宮城県知事。

主な著作

[編集]
みっちのトッコラ旅 1981 ふきのとう文庫
入手困難本。概要は『車いすからウインク』の第5章で読むことができる。
足指でつづったスウェーデン日記 1981 朝日新聞社
1979年にスウェーデンの障害者環境を視察した。同行した米村哲朗、河村(のち勝又)圭伊子、通訳の藤井恵美によるあとがき。帯は黒柳徹子。
車椅子からウインク 1988 ネスコ・文芸春秋
子供時代、恋愛、結婚、長男の大地出産、大地の成長を描く。序文は黒柳徹子。あとがきはひらがなタイプ原稿。
痛みの中からみつけた幸せ 1994 ぶどう社
頚椎症の手術をした、1992年の入院日記。2年前の離婚のこと。序文は黒柳徹子と浅野史郎。この作以後、著作は口述筆記。
車椅子で夜明けのコーヒー 1995 ネスコ・文芸春秋
副題「障害者の性」。性の欲望を論じる。序文はおすぎ
車椅子スウェーデン親子旅 1996 北海道新聞社
1994年、9歳の大地と15年ぶりにスウェーデンを再訪。介護者兼初代秘書兼英語通訳は松元巌子(みちこ)、ボランティアは石井美雪。序文は黒柳徹子。
あなたは私の手になれますか 1997 中央法規出版
日常受けるケアを論じる。序文は谷川俊太郎
素肌で語り合いましょう 2002 エンパワメント研究所
施設が大嫌いだった小山内が、社会福祉法人アンビシャスの施設長になった。長男の大地は受験勉強。母親の末期がん発見と死。
私の手になってくれたあなたへ 2007 中央法規出版
父母の思い出。長男の大地は、母の願いを入れて理学療法士になった。2005年の障害者自立支援法への苦言。序文は高橋恵子
わたし、生きるからね 2009 岩波書店
2008年に悪性リンパ腫を発病し入院。大地は理学療法士として主治医と交渉してくれた。アンビシャス経営の悩み。
おしゃべりな足指 2017 中央法規出版
アンビシャス施設長を退任。生涯を要約。序文は黒柳徹子。終章は杉本裕明。

著作から抜粋

[編集]
6歳で札幌に出たころ

「笑う人はね、新聞も本も読んでいないから、脳性マヒという病気がわからない。わからないから笑うんだ。笑う人のほうがかわいそうなんだよ」

 それが母が母なりに考えた理屈だったと思う。同時に、私の社会参加のはじまりだった。

『車椅子からウインク』 p.181


1977年、いちご会結成

一回目の話し合いが終わったとき、西村さんが、 「あなたがたが考えていることを文章にまとめて、出席してくれた人たちに送ったらどうだい」と、その場で五千円くださった。

そんなわけで、いちご会は五千円の基金ではじまり、一回だけになると思っていたいちご会の通信は、ずっといままでつづいている。

『車椅子からウインク』 p.217


スウェーデン旅行

オーサに「足で運転できる電動車椅子は持ってないの?」と聞くと、彼女はにっこりして、「あれは楽だけれど、なまけものになるから使わない。足が動く限り足で漕ぐの」ときっぱりと言った。

『足指でつづったスウェーデン日記』 p.169


『足指でつづったスウェーデン日記』出版

朝日新聞の出版局の人から、「小山内さん、帯は誰に書いてほしいですか」と聞かれた。わたしは100%ダメだと思ったが、ジョークで「黒柳徹子さんがいいかもねぇ。でも、無理でしょうねぇ」と言った。(中略)わたしは二番手を一生懸命考えていた。ところがである。さすが朝日新聞の力はすごい。徹子さんがオッケーしてくださったというのだ。夢でも見ているようであった。(中略)

本は小山内美智子という名前より、黒柳徹子の名前の方が目立つようになっていた。徹子さんが書いた本だと間違って買った人もたくさんいた。

『わたし、生きるからね』 p.192


北海道福祉課長 浅野史郎

浅野さんと初めて対面したとき、「わたしが話を聞きます。何でもいいから教えてください」と言われた。わたしは、「今まで話し合いをしても騙されてばかりいた。あなたと話をしてもまた、同じことでしょう。もっと上の人を呼んできてください」と生意気に叫んでいた。産まれて三か月の息子は道庁のソファーの上でスヤスヤ寝ていた。議論をするうちに、次第にこの人は今までのお役人とは違うかもしれない、ということがわかってきた。

『わたし、生きるからね』 p.104


後に浅野さんから聞いた話だが、浅野さんが北海道庁に出向するとき、上司から「浅野君、北海道では小山内美智子に気をつけろ。好き勝手言って、そんなやつの言うことばっかり聞いていたら大変だ」と忠告されていたという。

『おしゃべりな足指』 p.210


離婚

彼女に出会った時、私は愛くるしい笑顔に引き付けられた。(中略)彼女は私の宝物を剥ぎ取っていった。とったか、とられたかは、もうどうでもいい。恋愛も弱肉強食なのだ。ベットに寝たっきりの女が二人、一人の男に火花を散らし、とてつもないエネルギーで愛しあったことは、とてもいい物語だったのかもしれない。

『痛みの中からみつけた幸せ』 p.39

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 1962年入学は『足指でつづったスウェーデン日記』『車椅子からウインク』などの著者紹介による。一方小山内は9歳で小学校に入学したと書く。両方正しいなら、小山内の入学は6月以後だったか。
  2. ^ 西村の訪問はいつか。『車椅子からウインク』p.215によれば小山内が高校を卒業した1974年。同著p.216によれば西村は北海道リハビリー在勤中なので1975年。『おしゃべりな足指』p.134によれば小山内が高校2年の1972年。

出典

[編集]