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小峯隆生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小峯 隆生(こみね たかお、1959年[1]2月19日[2] - )は、日本の編集者ラジオパーソナリティ、元『週刊プレイボーイ』軍事班記者[3]小説家映画監督の経験もあり、日本映画監督協会会員。2010年頃より筑波大学非常勤講師、同大学知的コミュニティ基盤研究センター客員研究員[4]同志社大学嘱託講師。

兵庫県芦屋市出身[2]東海大学高輪台高校東海大学工学部航空工学専攻)卒業[5]

略歴

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5歳まで兵庫に居たが、それ以後はずっと東京都在住。大学生時代はシェイクスピア劇研究会に在籍[5]。大学卒業後は外資系企業コンピュータセールスマンを務めていたが[5]、会社を辞めた後、東京・新宿の飲食店でバーテンダーなどのアルバイトをしていた[5]。その後野坂昭如に出会い「何かやれ」と言われたことがきっかけとなり[5]、1983年より雑誌『週刊プレイボーイ』(集英社)のフリー編集者となり、名物編集者として有名になる[5]

1984年、第8回日本パロディ展でパフォーマンス部門に応募、「外国人のための日本語リンガフォン」で入選。これがきっかけで1985年4月より、ニッポン放送オールナイトニッポン』水曜1部のパーソナリティを務めたことで一躍有名になる(1986年3月まで担当)。またその後1987年10月には、同じく「オールナイトニッポン」水曜2部のパーソナリティに復帰(1988年9月まで担当)、オールナイトニッポンにおいては異例の「1部から2部への返り咲き」を果たし、昭和期では唯一の例だった(2021年現在1部から2部相当への降格後も続行したのは、小峯のほかには平成後期のアルコ&ピース/三四郎の3例のみ[6])。

この頃、宅八郎とテレビ局の楽屋で口論したことがきっかけで、宅が小峯の自宅に嫌がらせを繰り返したとして民事裁判を起こしている。宅の復讐路線のきっかけでもある。

『週刊プレイボーイ』との契約を解除された後、夕刊紙『日刊アスカ』(飛鳥新社)の創刊に参加するも、同紙の廃刊に伴い、フリーのジャーナリストに転身。週刊プレイボーイの軍事記者として、アフガン戦争イラク戦争に関する特集取材をこなした経験があり、軍事技術軍事史に精通し、特に各国の特殊部隊の徹底的な研究を中心に手掛けている[3]

映画監督のジェームズ・キャメロンのインタビュー集『豪快!映画学 ジェームズ・キャメロンTalks About Film ジェームズ・キャメロン映画を撮らずにいられない』(集英社インターナショナル)を手掛けるなど交流があり、キャメロン作品であるハリウッド映画『ターミネーター2』『トゥルーライズ』に端役として出演している[1]

過去の出演作品

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映画

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テレビドラマ

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ビデオ映画

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ラジオ

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PV

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ゲーム

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  • 鬼武者3(2004年) - 2004年のパリでビデオカメラで幻魔の襲撃を撮影する観光客役で出演。

監督作品

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  • N45゜第2話「パオさんとの復讐」(1994年)

連載

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主な書籍

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軍事記者の経験があるため銃器・ミリタリーの知識を生かしたものが多い。

脚注

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  1. ^ a b 小峯隆生”. 人名事典 .  PHP研究所. 2019年1月18日閲覧。
  2. ^ a b ラジオパラダイス 1988年3月号 連載「小峯隆生のノルウェイの海軍 Vol.3」p.58 など
  3. ^ a b 海上保安庁特殊部隊SST,本人著,7頁及び173頁,並木書房
  4. ^ 飯柴智亮(聞き手・小峯隆生)『2020年日本から米軍はいなくなる』(講談社)抜粋”. 講談社. 現代ビジネス (2014年8月25日). 2014年8月26日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 月刊ラジオパラダイス 1986年2月号 43-46ページ「小峯隆生 Radio People Interview」
  6. ^ “『三四郎ANN』3月末で終了 4月から再び『ANN0』へ「あぶねー! 耐えた」”. ORICON NEWS. (2021年2月27日). https://www.oricon.co.jp/news/2185783/full/ 

外部リンク

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