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小川光氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小川壱岐守光氏から転送)
 
小川光氏
時代 安土桃山時代 -江戸時代
生誕 永禄3年1560年
死没 慶長15年8月22日1610年10月8日
別名 通称:左馬助、壱岐守
官位 壱岐守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉徳川家康
日田藩初代藩主
氏族 近江小川氏
父母 小川祐忠
兄弟 光氏[1]祐滋(良氏)[1]、実乗[2]
なし
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小川 光氏(おがわ みつうじ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての大名豊後永山城(丸山城)主。日田藩の初代藩主ともする。通称は左馬助[3]、壱岐守。

略歴

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小川祐忠(宗氏)の長男とも次男ともいう[1]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍に属したために、兄・祐滋(良氏)は一時改易処分となるが、祐忠の正室の弟にあたる一柳直盛(監物)の奔走もあって、慶長6年(1601年)に豊後国日田郡2万石に入領した。しかし、なんらかの事情があり光氏が家督を継ぎ日田に赴任した。森藩の「久留島家文書」によると祐滋の日田入領をめぐり兄弟の出入があったと記されており、父・祐忠により石田三成と関係の深かった祐滋を廃嫡し光氏を推薦したのではないかと考えられる。慶長10年の「豊後国慶長国繪圖」では光氏の知行地は2万1千石となっている。

既存の日隈城には毛利高政が城代を置いていたため、日田郡夜開郷永山[4]に新しく丸山城を築いた。城が完成する間の3年間は日田郡友田村丸山を居城とした[5]。この丸山の所在については諸説あり、現在の北友田三郎丸にある星隈公園(三郎丸砦跡[5])とする一方、岡為造著の『日田郡史』(1915年)では現在の日田市光岡岳林寺の裏手の山としている[5][3]

慶長15年(1610年)8月に病死した。光氏の死後、小川家は無嗣断絶となるが、一族の小川喜助と小川又右衛門が江戸に赴き、僧籍に入っていた兄弟の実乗をもって小川家の存続を願い出た。これは当人の拒否により実現しなかったが喜助と又右衛門はそのまま幕府に召し抱えられ、継続して日田の支配を命じられた。元和2年(1616年)8月に石川忠総が6万石で入封するまでの間、小川家が城地を管理した。

光氏の知行について

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石川氏転封の寛永16年(1639年)に、旗本の小川正長[8](藤左衛門)と小川氏行[9](九左衛門)が、幕府直轄地日田玖珠速見郡内約4万1,800石の代官として着任した。慶安元年(1648年)に氏行が西下の途中で事故に遭って死亡。明暦元年(1655年)に正長も死亡し、氏行の子息の行広(又左衛門)と、正長の正久(藤左衛門)が日田代官を務めている[10]。しかし寛文5年(1665年)に支配所で農民訴訟(一揆のこと)が起きたことで、両名とも家禄没収となった。

この日田代官の小川氏と小川光氏との関係は判然としないが、小川光氏の日田入領は、代官としての赴任であるという説が定説となっている。

一方で、中野等(九州大学院教授)は慶長6年9月7日(グレゴリオ暦1601年10月2日)付けの「豊後国内御知行方目録」を示して、光氏は代官ではなく大名であった、すなわち日田領は小川氏の知行地であった可能性を指摘している[11][12]

脚注

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  1. ^ a b c 長男または次男という。彦根藩の筋奉行に小川半左衛門が提出した由緒書では、光氏が長男、良氏(祐滋)が次男、実乗が三男となっている。『國領系図』では、左馬介良氏が嫡子で壱岐守光氏を弟としている。しかし異母兄弟であるということならば、嫡出を先に書いたということかもしれない。
  2. ^ 二男または三男。出家して、石清水八幡宮社の瀧本坊の住持となった。
  3. ^ a b 日田市教育庁文化財保護課編『永山城跡Ⅱ』日田市教育委員会、2013年
  4. ^ 現在の丸山町2丁目月隈公園
  5. ^ a b c 日田市教育庁文化財保護課編『永山城跡』(日田市埋蔵文化財調査報告書 第99集) 日田市教育委員会 2011年
  6. ^ a b 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 小川氏」『寛政重脩諸家譜. 第5輯』國民圖書、1923年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082718/3 国立国会図書館デジタルコレクション 
  7. ^ a b 大橋金造 1928, p.458
  8. ^ 小川正信(甚右衛門)の子[6]。先祖や系譜は不明[7]
  9. ^ 小川又右衛門(氏綱)の子[6]。先祖や系譜は不明[7]
  10. ^ 長順一郎著『総合村落史考 - 日田の歴史研究 -』歴研 2001年
  11. ^ 中野等「東京大学史料編纂所所蔵[徳大寺文書]・豊後國内御知行方目録』」『先哲史料館研究紀要』第3号(1998年)
  12. ^ 宮下良明「毛利高政日田玖珠代官の考察」 佐伯史談会編『佐伯史談(184)』 2000年

参考文献

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