小川祐滋
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時代 | 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 生年不詳 |
死没 | 慶長10年(1605年) |
別名 |
忠有、良氏、通称:左馬助(左馬介) 茶名:兼々庵 |
主君 | 豊臣秀吉、秀頼 |
氏族 | 近江小川氏 |
父母 | 父:小川祐忠 |
兄弟 | 光氏[1](壱岐守)、祐滋(良氏)[1]、実乗[2] |
子 | なし |
小川 祐滋(おがわ すけしげ)は、安土桃山時代の武将、大名。伊予今治の国分城主。通称は左馬助。別名で忠有あるいは良氏ともいう。茶人としては兼々庵を名乗った。
略歴
[編集]小川祐忠の子。次男とも長男ともいう。譜代の家臣衆として豊臣秀吉の馬廻となった。
慶長の役では、慶長3年(1598年)正月に蔚山への出動を命じられた。秀吉の死に際しては遺物として左文字の刀を受領した。また、同年に隠居した祐忠より家督を譲られている[3]。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いには、父と共に出陣。西軍に属したが、藤堂高虎の誘いを受けて内応しており、小早川秀秋の寝返りに続いて東軍に寝返った。ところが、戦功を挙げたものの、改易された。これは石田三成と昵懇であったためといわれている。
なお、祐滋を萬屋平右衛門[4]と同一視する説があるが、小川祐忠の子とされる以外に共通点はない。
脚注
[編集]- ^ a b 長男または次男という。彦根藩の筋奉行に小川半左衛門が提出した由緒書では、光氏が長男、良氏(祐滋)が次男、実乗が三男となっている。『國領系図』では、左馬介良氏が嫡子で壱岐守光氏を弟としている。しかし異母兄弟であるということならば、嫡出を先に書いたということかもしれない。
- ^ 二男または三男。出家して、石清水八幡宮社の瀧本坊の住持となった。
- ^ a b 大橋金造 1928, p.457
- ^ 小川土佐守祐忠の長男は千橘といって、関ヶ原で改易となった後に、萬屋の屋号を用い、「萬屋平右衛門」と名乗って、京都二条で米穀商や両替商、木楽屋などを営んで成功を収め、寛文年間に二条陣屋を預けられるほどの豪商となったという伝承がある。ただし、祐忠に「千橘」という名の子はおらず、光氏と良氏(祐滋)は共に慶長年間に病死したとされており、史料とも整合性がないので、商家の家伝として創られたものであろう。
参考文献
[編集]- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、47-48頁。
- 大橋金造 編「国立国会図書館デジタルコレクション 第16章 小川氏」『近江神崎郡志稿. 上巻』滋賀県神崎郡教育会、1928年、456-457頁 。