小川町大火災
小川町大火災(おがわまちだいかさい)は、江戸時代に長崎で発生した火災。
被害状況
[編集]天保9年4月4日(1838年4月27日)の夜、小川町の与蔵宅から、囲炉裏の残り火の不始末により出火した[注釈 1][注釈 2][1][2]。
延焼により、25町、8丁×5丁におよぶ範囲が延焼した。
火事は翌朝には消し止められたが、1393戸が消失し、35戸が崩壊。土蔵60棟、唐通事会所、対馬・小城・鹿島・諫早・筑前の屋敷、高島四郎太夫・後藤市之丞・高木諸右衛門宅も焼失。死者は、焼死3人、井戸に落ちて死んだ者が3人だった[3]。
焼死者3名、および豊後町近江屋伝蔵の井戸で発見された3名は、以下のとおり[注釈 3]。
- 焼死者
- 萩尾真右衛門 - 久松喜兵衛召使
- 旅人・善六 - 平戸町吉川左右助方で焼死。島原領深江村の者で、長崎村十善寺郷書上
- 平戸町にて焼死1名。身元・性別ともに不明
- 井戸に落ちた死者
- 勝山町 梅蔵
- 豊後町 茂三郎
- 伊勢町 亀太郎
被災地
[編集]『長崎實録大成 続』によれば、各被災状況は以下の通り[注釈 4][2]。
- 小川町 - 類焼85軒。取り崩し4軒、土蔵6戸焼失。
- 内中町 - 類焼28軒。取り崩し2軒、土蔵1戸焼失。
- 恵美須町 - 類焼1軒。取り崩し2軒。
- 豊後町 - 類焼47軒。取り崩し1軒、土蔵1戸焼失。
- 新興善町 - 類焼70軒。
- 後興善町 - 類焼70軒。土蔵2戸焼失。
- 本興善町 - 類焼38軒。取り崩し1軒。土蔵5戸、貫銀方土蔵1戸焼失。
- 唐通事会所1軒焼失。
- 新町 - 類焼6軒。取り崩し3軒。
- 船津町 - 類焼41軒。取り崩し3軒。
- 堀町 - 類焼27軒。取り崩し3軒。
- 今町 - 類焼173軒。土蔵1戸焼失。
- 金屋町 - 類焼50軒。
- 本博多町 - 類焼68軒。土蔵2戸焼失。
- 浦五島町 - 類焼14軒。取り崩し1軒。諫早豊前屋敷1軒焼失。
- 本五島町 - 類焼89軒。土蔵4戸焼失。黒田播磨屋敷1軒焼失。
- 椛島町 - 類焼116軒。土蔵24戸焼失。そのほか、御旅所御假屋1軒、御備船道具入1軒焼失。
- 平戸町 - 類焼53軒。土蔵1戸焼失。
- 大村町 - 類焼64軒。土蔵1戸焼失。そのほか、高島四郎太夫宅1軒焼失。
- 島原町 - 類焼39軒。土蔵1戸焼失。そのほか、後藤市之丞宅、高木清右衛門宅の2軒と土蔵1戸焼失。
- 外浦町 - 類焼47軒。土蔵1戸焼失。
- 今下町 - 類焼4軒。
- 本下町 - 類焼82軒。取り崩し1軒。
- 江戸町 - 類焼41軒。
- 西築町 - 類焼66軒。取り崩し7軒。土蔵2戸焼失。そのほか、対馬藩蔵屋敷類焼。
- 東築町 - 類焼41軒。取り崩し7軒。土蔵6戸焼失。そのほか、小城藩、鹿島藩蔵屋敷類焼。
総計1361軒、土蔵59軒焼失。取り壊し家屋35軒。蔵屋敷2軒焼失。貫銀方土蔵・唐通事会所焼失。御旅所御假屋1軒、御備船道具入1軒焼失。
そのほか、船番長屋焼失。30軒が半ば取り崩し。
町の焼失範囲は、南北8丁と東西5丁。
被災者への措置
[編集]被災者には、長崎会所から白米120石7斗5升、銭224貫文が施与され[注釈 5]、住居を失った者に対しては八幡町の芝居小屋を避難所とした[4][5]。
そのほかにも、本博多町の木下卯十郎が、町内の被災者に米100俵と銭10貫文を施与した[4]。
処罰
[編集]火元となった者たちへの処罰は以下のとおり。
- 出火元・小川町 新吉の借家住まいの与蔵 - 居町払[注釈 2][1]。
- 与蔵組政平、才次郎、貞次郎、自身番詰所貞吉、下番恒次郎、福太郎、与蔵隣家茂三郎、武平、与蔵向側唯助、米吉、卯兵衛 - 「消防には尽くしたが、大火になり焼死者まで出したのは不届」として、押込20日[注釈 2][注釈 6][1]。
火事に乗じて犯罪行為におよんだ者たちは以下のとおり。
- 船津町由太郎 - 出火の折りに、大黄3斤ほどと、衣類5品盗んだ咎で、入れ墨のうえ敲[4]。
- 伊勢町茂助 - 火消人夫として出ていたが、琴1面、葉タバコ2個を盗んで、それを売り払って酒食をした咎で、入れ墨のうえ敲[4]。
- 長崎村西山郷久助 - 出火の際に、平戸町栄三郎宅へ手伝いに行き、そこで紙類18束47枚を盗み、売り払って酒食に使った咎で、敲[注釈 7][4]。
- 炉粕町茂助 - 久助の盗品を買い取り、それを売り払ったことが発覚。売り払った分の金銭を取り上げた上で、敲[4]。
- 肥前国布津村の無宿長之助 - 出火の折り、今下町を往来した時に、米1俵を盗んで売り払い酒食した咎で、敲[注釈 7][4]。
- 油屋町与一郎 - 長之助の米を買い取ったので、その買取の代金を取り上げ[4]。
以下は、氏名不明の者
- 樺島町に手伝いに行った際、避難荷物を船に運び、一部を盗む - 入墨のうえ敲[注釈 7]。
- 火消人足に出た際、西築町の店先のものを盗む - 入墨のうえ敲[注釈 7]。
- 恵美須町に手伝いに行った際、運び出した品物を質に入れる - 居村払[注釈 7]。
- 海岸に流れている酒樽を拾い、道で拾った脇差の柄とともに売る - 居村払[注釈 7]。
- 郷乙名 - 紛失した酒樽の数と届けられた樽の数が違う - 居村払[注釈 7]。
火災後
[編集]火災の火元となった小川町があった場所には、梅岡稲荷大明神が建てられている。
大村町にあった本邸が全焼した高島秋帆は、父の茂紀が建てた別邸に引っ越した。この別邸が「高島秋帆旧邸」で、後に国指定史跡となった[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 四日夕囲炉裏燃残(り)之槇木(へ)灰を掛(ケ)置他行いたす処留守中右槇木燃立出火およひ大火(ニ)相成。
- ^ a b c 森永種夫編 犯科帳刊行会『犯科帳』第8巻 文政11年〜天保13年(自文政十一年至天保十三年)、300-301頁。
- ^ 小原克紹著 森永種夫校訂『長崎實録大成 続』(長崎文献叢書)長崎文献社、542頁。
- ^ 小原克紹著 森永種夫校訂『長崎實録大成 続』(長崎文献叢書)長崎文献社、532-534頁。
- ^ 災害復旧や災民救済のために、長崎では長崎会所から「非常備金」「貧民救助米代」という名目で災害支援費が支出された。
- ^ 焼死人も有之段畢竟消防方不行届故之儀一同不埒(二)付押込。
- ^ a b c d e f g 『犯科帳』、天保八年十月 - 九年九月、一一六頁)。
出典
[編集]史料
[編集]- 『犯科帳』第8巻 文政11年〜天保13年(自文政十一年至天保十三年) 森永種夫編 犯科帳刊行会 1960年
- 『長崎實録大成 続』(長崎文献叢書) 小原克紹著 森永種夫校訂 長崎文献社 1974年
- 『長崎奉行所判決記録 犯科帳目録』長崎学会叢書3 森永種夫 長崎学会 1956年12月
参考文献
[編集]- 江越弘人『≪トピックスで読む≫長崎の歴史』弦書房、2007年3月。ISBN 978-4-902116-77-9。
- 外山幹夫『長崎奉行 江戸幕府の耳と目』中央公論社、1988年12月。ISBN 4-12-100905-3。
- 本田貞勝『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』雄山閣、2015年1月。ISBN 978-4-639-02346-3。
- 簱先好紀『天領長崎秘録』長崎文献社、2004年8月。ISBN 4-88851-024-5。
- 平凡社 編『日本歴史地名大系』 43(長崎県の地名)、平凡社、2001年10月。ISBN 4-582-49043-3。